知的おかず:『フロイト』で胃もたれ
さて、今宵もまた、知的ダイビングが始まるわけですが、あなたもわたしも、きっとここを通らなければならなかったのよね、フロイト。無意識の闇を照らし出す精神分析界の巨人。だが、正直に言ってしまえば、フロイトは一種の「知的ジャンクフード」みたいなもので、食べ過ぎると胃もたれがハンパない。
特にアラサー女子(ヲタ)にとって、彼のリビドー理論は、人生という名の消化不良を引き起こす主因であることは周知の事実。リビドー。私たちの欲望の根っこにあるものだと言われても、どうしても「え、そこまで深掘りしちゃうんですか?」という感覚がぬぐえない。まるで、無意識の中に潜む怪物を無理やり引っ張り出して、夕飯のおかずにしようという魂胆。だからこそ、ここまで来たのよね。胃もたれ覚悟で、知的おかずを食べ尽くすために。
フロイトの理論って、なんていうか、ブラックホールみたいなのよ。最初は「へー、なんか面白そう、覗いてみようかな」なんて軽い気持ちで近づくと、あっという間に重力に引っ張られて、気づけば脱出不可能なイベントホライズンに突入してる。無意識の中で渦巻くエディプス・コンプレックスとか、これ、まさに「お母さんとお父さんの問題をこじらせた結果、私たちはこうなりました」っていう地政学的な家庭内紛争。
しかも、そこにリビドーが絡んでくると、もう誰も彼もライバル。家族内サバイバルゲームの始まり。いわば、無意識の中で繰り広げられる心理的バトルロワイヤル。これ、現代のビジネスシーンにも通じるものがあるのよね。経営コンサルとして、日々の戦場で戦っているわたしが言うんだから、間違いない。
例えば、クライアントの組織分析をしていると、まるでフロイト的なエディプス・コンプレックスを具現化したような権力構造が見えることがあるの。上司は父、部下は子。上司という父なる存在に認められたいという無意識の欲望が、部下たちの行動を支配している。でも、部下たちはその父を倒して、自分が新たな父となることを望んでいる。一方で、上司はその座を守りたい。そして、その板挟みの中で、わたしは「え、わたし、何のためにここにいるんだっけ?」と冷静に考える瞬間があるわけ。これ、完全にエディプスの再現じゃない? まあ、こんなことを思いながらも、自分の仕事を淡々とこなすわたしは、無意識の中で「超自我」として機能しているのかもしれない。ああ、胃もたれしてきた。
フロイト理論の一番の魔力は、この無意識の中に潜む不穏なエロス。それを見抜いてしまうと、世界はもう元には戻らない。ああ、知りたくなかった。いや、でも知りたい。この揺れ動く感情の波に乗せられて、気づけば深夜3時、ベッドの中でスマホ片手にフロイトを読んでいるわたし。これが知的変態の真骨頂よね。わたし、28歳、経営コンサル、変態です。言語化することの快感に酔いしれている自分がいる。言葉を紡ぐたびに無意識の海にダイブして、深海魚たちと戯れているような感覚。深海ってね、光が届かないからこそ、未知の領域が広がっている。フロイトが言う「無意識」も同じ。私たちは普段、意識の光が届く範囲でしか世界を見ていないけれど、その下には無限の暗黒領域が広がっている。そこに潜むものに触れるたび、私たちは何かを知ってしまう。知りすぎて胃もたれするの。
でも、知的胃もたれって、ある意味、高濃度の美食と同じなのよね。フロイトの理論をしっかり咀嚼しようとすればするほど、その重みと複雑さに圧倒される。まるで、数式が解けないままにどんどん次の問題が積み上がっていくような感覚。これ、理系ヲタのわたしにとっては、まさに数学的快感。解けない問題に執着し続けるその執念こそ、わたしのリビドーの正体かもしれない。フロイトが言うように、すべては無意識に支配されているのなら、この胃もたれ感もまた、わたしの無意識が選び取った結果だということなのよね。ああ、フロイト、あなたの理論が脳内で渦巻いて止まらない。
そして、気づけば深夜のベッド内で、知的お漏らし。頭の中がアイデアでいっぱいになりすぎて、もう抑えきれない。その結果、知識が溢れ出してしまう。この感覚、言葉にするのは難しいけれど、たぶん、これは一種の的エクスタシー。でも、そんな自分を客観視すると、なんだか恥ずかしくなるのよね。自分の思考をひけらかしてしまったことに対する、共感性羞恥。でも、わたし、そんな自分がちょっと好き。変態的な自意識過剰。だけど、これがわたしのアイデンティティだから、仕方ないのよね。
フロイトを深掘りすればするほど、私たちは自分自身の無意識と向き合わざるを得なくなる。そして、そのたびに胃もたれを感じながらも、また次の知的おかずに手を伸ばしてしまう。この無限ループ。もう、抜け出せない。知的変態の宿命ね。