ベビーカー in 満員電車 (徒然変態日記)
満員電車の朝、湿度95%の人肌密度がわたしの脳をじっとりと覆い尽くす中、ベビーカーという異質な存在がヌルッと滑り込んでくる瞬間に出くわした。その動きは、油膜を張った水滴が表面張力を無視して溶け込むような奇妙な一瞬だ。テトリスのごとく詰め込まれた無数の人々の肉塊の隙間に、まるで計算されたフローチャートの一手のように差し込まれるその圧倒的存在感。。これはもはや物理学的奇跡であり、同時に社会的フェノメノンだと思わざるを得ない。いや、わたしの脳内ではすでにそのベビーカーはただの移動手段ではなく、「社会の境界線を滑らかに侵食する知的存在」として再定義されている。そう、これはただの移動ではない。わたしが求める「摩擦と滑らかさの共存」の縮図なのだ。
正直に言えば、最初に感じるのは苛立ちだ。狭い空間に新たな異物が加わることで生じる圧迫感、そしてそれによって生じるストレスホルモンの分泌。だが、その次の瞬間、わたしの理系脳はスイッチを切り替え、まるで量子力学的パラドックスを解くような冷静さで目の前の現象を解体し始める。なぜベビーカーはこの満員電車というカオスの中で、こんなにも滑らかに「受け入れられた感」を装えるのか?あるいは、そもそも「受け入れられる」とは何なのか?その問いは、わたしの中で子ども用のプラモデルのように次々と組み立てられていく。
社会的には、ベビーカーは「未来の担い手」を運ぶ神聖な乗り物であり、わたしたち全員がその存在を守るべきだという暗黙の了解がある。それは、経済学的に言えば「未来への投資」、存在論的に言えば「世代間のリレー」、心理学的に言えば「母性への潜在的な共感」の象徴だろう。
だがその一方で、この滑り込むベビーカーには「自己主張」の匂いがある。無数の人々が自らの存在を消してまで秩序を保とうとするこの空間において、ベビーカーはまるで「わたしはここにいる!」と叫ぶかのように堂々と登場する。その姿には、どこかBL的な「禁忌の侵入者」への萌えすら感じる。わたしの中の変態的なフェチズムが、ここで目覚めるのだ。
そして、わたしが特に魅了されるのは、その「油感」だ。油は水を弾く。つまり、わたしたち群衆という「水の集団」の中で、ベビーカーは油のように孤高の存在でありながら、同時にその存在が全体の流れを変える触媒となる。これはある意味、経営コンサルタントとしてのわたしが目指す理想像でもある。クライアントという巨大な組織に対して、わたしという異物が滑らかに侵入し、摩擦を最小限に抑えつつも全体を変革する触媒として機能する。。そんなふうに生きられたらどれほど素敵だろう?だが現実には、わたし自身が社会の中で滑らかに入り込めているかどうかは、かなり怪しい。むしろわたしは、摩擦で煙を上げながら必死に溶け込もうとする不器用な存在だ。
ある種の自虐を込めて言うならば、このベビーカーの油感に対するわたしの萌えは、自己投影の結果なのだろう。わたしもまた、満員電車という社会の中で、油となることを夢見て、水圧に押し潰されそうになりながらも滑り込もうとしている。そしてその結果、たまに人々の視線という圧力に耐え切れず、精神的にお漏らしをしてしまうこともある。だが、それで良いのだと思う。お漏らしは恥ではなく、むしろわたしという存在がここにいる証明なのだ。
以上みてきたように、ベビーカーとは、ただの移動手段ではない。それは社会の本質を映し出す一種のメタファーであり、わたしたちが日々直面する「受け入れるか、排除するか」という選択の象徴だ。だからこそ、わたしはこの油感に萌える。そして同時に、自らもまた油となることを目指し、今日も満員電車に乗り込むのだ。ヌルッと滑り込むように。