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知的おかず:『ダーウィン』の観察眼に萌える

夜のしじまに、ふと本棚の奥の古ぼけたダーウィンの伝記を開いたのが運の尽きでした。「ダーウィン」と言うと、すぐさま「進化論」とか「自然淘汰」とか、なんだか堅苦しい単語を思い浮かべる人も多いでしょう。

でも、わたしが惹かれるのはそんな教科書的な話ではありません。ダーウィンの観察眼そのもの、いや、彼のフェチズム的な執着―そう、「観察」に取り憑かれた人間の狂気(あるいは、深い愛情)に、わたしはどうしようもなくゾクゾクしてしまうのです。

たとえば、彼がひたすらミミズの土壌改良能力を観察し続けた話。普通の人なら「ミミズ?ヌルヌルしたキモい虫でしょ?」で終わるところを、ダーウィンは「ミミズこそ地球の英雄だ!」と本気で思い込み、何年もかけてその地味すぎる功績を研究しました。この執念、どこか変態的じゃないですか?ミミズを主役に据えたその姿勢、わたしの中の変態的な知的好奇心を直撃して、もうどうしようもない。「どうしてそこまで?」と問いながら、わたしの中のフェチズムが静かに目覚めていく感じです。

ダーウィンのフェチ的観察眼を考えるにあたって、わたしなりにひとつ仮説を立ててみました。彼がこれほどまでに「観察」に異常なまでに執着した背景には、進化論や自然淘汰の理論を超えた、もっと深い人間的な欲望―「存在の証明」があったのではないか、と。ダーウィンが愛したのは単なる「生物」ではなく、「生きているものすべての痕跡」でした。彼の観察の対象は、生命そのものの儚さと美しさ、その両方を同時に切り取ろうとする試みだったのかもしれません。そう思うと、彼の研究はただの科学実験ではなく、ある種の芸術作品のようにすら感じられるのです。

たとえば、ダーウィンがガラパゴス諸島でフィンチのくちばしを延々と観察し続けたエピソード。ここで重要なのは、彼が単に「鳥の種類」を分けることに興味があったわけではない、ということです。彼にとってフィンチたちのくちばしは、単なる「形が違う部位」ではなく、環境と生物のダイナミックな対話の証人だったのです。フィンチのくちばしを見つめる彼の視線は、もはや科学者というよりも、恋人が相手の顔をなぞるような官能的なものすら感じられる。わたしには、ダーウィンがフィンチに触れるたび、彼自身が進化の一部になっていくような感覚すら覚えます。そしてその姿勢が、わたしたち人間にとっての究極の問い―「なぜわたしたちはここにいるのか?」という根源的な疑問に、一歩ずつ近づいていく鍵だったのではないでしょうか。

こうしたダーウィンの観察眼は、現代にも通じるものがあります。たとえば、わたしたちがSNSで「推し」のちょっとした仕草や表情を延々リピートして追いかけるその行為。これは、ダーウィンの観察と何が違うのでしょうか?わたしたちもまた、推しの存在を通じて、何か普遍的な「美しさ」や「繋がり」を感じ取ろうとしているのではないでしょうか。それはダーウィンがミミズやフィンチを通じて感じ取ったものと、根本的には同じ衝動だと思うのです。つまり、観察の欲望とは、わたしたち自身が世界の一部であることを確認する行為にほかなりません。

ここまで語っておいてなんですが、正直、わたし自身もダーウィン的な観察眼を持ち合わせているかというと、自信がありません。わたしの観察といえば、電車で隣に座るサラリーマンのスーツのシワや、スマホを握る指先の微妙な動き、爪半月の大きさ、爪の手入れを観察して、その人の生活や心理のディテールを透視する程度のものです。でも、そんな日常の行為にさえ、「観察」のフェチズムが潜んでいると考えると、少しだけ自分がダーウィンの影響下にあるような気がして、なんだか誇らしい気持ちになるのです。

ダーウィンの観察眼にわたしたちが惹かれるのは、彼が「対象」を通して「自分」を見つめようとしていたからではないでしょうか。観察とは、自己探求の最も原始的で、最も官能的な手段です。だからこそ、わたしはダーウィンの観察眼に悶絶し、夜な夜なその痕跡を追い求め、知的おかずとしてひたすら味わい続けるのです。この世界のすべてが、無駄で、意味深で、どうしようもなく愛おしい、と感じながら。

日曜夜にふさわしいおかずだったかなと思います(ちょっと漏れてしまいましたが)。お読みいただきありがとうございました、そしてごめんなさい。


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