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「私」を形成した「モノ」 part2

みなさまどうも、碧です。


確か…中学までのは書きましたね。高校からの事。

すったもんだあってから都立の中堅校に合格しました。母親は「都立ならお金かからないから行ってもいいわよ」と。当時私には行きたい高校があった。中学時代に演劇部にいて、他にも母親に連れられて小さな劇団に見学行ってました。日常で演技をしていたから台本ありゃ楽勝。いざ入団…となった時にケチな母親が「こんな高い月謝払いたくない」と。少しだけ「他人として舞台に立つ」事への夢というか、そういうのが芽生えてたから正直言って更に恨みましたよ。

そこで初カレ登場。散々振り回されてたくさんの傷をつけられ人間不信。

そんな出来の悪い私でもクラスでは仲間らしき友人が出来た。所謂「お金持ち」。うちは私服登校だったのですがみんな当時流行ってたブランドを身につけてた。

その時は漠然と「いいなー」程度。昔から身なりに疎かったから。

なんとなくみんなとわちゃわちゃしてて、夏休み終わって新学期スタート。

…その日から私はイジメの対象となった。仲良かった人らからのシカト。話しかけても空返事。お昼も私を避けるかのようにして。

最初はね、あまり気にしてなかった。でもそれが1週間、1ヶ月…と続くとさすがに私も「あ、ハブられた」と思ったんだよね。

何がきっかけかは知らん。昔からヤンキーに好かれてたのもあり、先輩でもグレてる人が普通に話しかけてきて、同級生でもそれが変わらずで。しかも全員男。それがアイツらには「男に媚びてる」とかなんとか見えたらしいね。くだらねー。

そこから私の引きこもりがスタート。…とは言え見栄っ張りな母親は毎朝しっかり弁当持たせて定時に私を送り出す。しゃーないから代々木公園とかで毎日ピクニックしてたな。

当時私は写真部と放送部に所属しており、とりわけ写真部では女1人+当時の学年での入部1人…という事もあり、とにかく優しくされた。ゆくゆくは部長になるから、と部費の使い道やらOBとの連絡やらを任された。

楽しかった。高校時代の一番のいい思い出。

その先輩方が3年になり、卒業を控えたある日の事。みんな優しかったけどとりわけ気にかけてくれてた先輩が「俺ら卒業したらお前も高校辞めるんじゃねーの?」と言った。

中途半端にしか生きられなかった私にも、どうしても行きたかった大学があった。確か東京理科大か静岡大学。運がよければ…東大(笑)

元々地震のメカニズムに興味があり、その研究がしたかった。だが、理科大は私立だし、姉貴も合格してたけど私立というだけで母親は猛反対。なのであの人(姉貴)は二浪して国立へ進学した。

そんな経緯もあり、私だけ私立は無理だから始めから諦めてたのよね。

もっと遡れば高校も演劇に力を入れてるとこに行きたかった。だが私立だし、演劇科は狭き門。諦めたさ。


先輩方が卒業してからは高校行ったの多分2日?席替えと教科書もらいに。それでも母親の「高校だけは卒業しろ」で籍は置いてた。

1年の冬休みから近所のファミレスでバイトを始めた。お小遣いがなかったのと、習い事であるバレエの月謝稼ぎ。クタクタになりつつもバレエはやりたかったから必死よ。

そんなこんなで私は一応3年に進級。でも友達もいない高校に行く気はなかった。毎日朝から晩までバイト。

ふと思った。「学費ムダじゃね?」と。

あまり悩みもせず二学期に退学。誰にも会わずひっそりとね。きっかけはイジメだけど。

んで、当時ファミレスのキッチンリーダーだった旦那と仲良くなる。彼女いたのになかなか会えないし、彼女が幼稚園の先生になりたいと夜間の大学に行き昼間はそこの系列の幼稚園で実習。たまの土日も旦那はバイト。会えない寂しさから旦那は手当り次第女に手を出した。私が把握してるだけで軽く10人。私はその中の1人。

別にどーでもいいと好き勝手にやってた。毎晩飲み歩き、ギャンブルに明け暮れた。

母親とも折り合いが悪く、しかも一応夕飯は作ってくれるが夜8時になると家の近所に男を待たせて出かけてく。その時かな?私は「完全に捨てられた」と思った。母親は私から「大人」を奪った。親父の事も。

姉貴は国家公務員となり、その時は静岡にいたのかな?悩みを話せる仲でもなく、毎晩1人で暗い部屋で過ごしてた。たまに母親がいて私が遅く帰ると「結婚前の女が盛りつけやがって」と罵る。は?じゃあてめーはどうなんだよ?とか思ったのかな?嫌気がさして家を出た。それが17の時。

ひとり暮らしなもんだから旦那は自然と転がり込んできた。遊び相手の1人だけど嬉しかった。

しばらくして、私は歳をごまかし銀座でホステスとなる。客層もよく、親しい方は来るたびにプレゼントをくれた。それも幸せだった。


だけど、18から19へのカウントダウンの頃、妊娠が発覚。当初は年齢的にも無理だと思っていたから諦めようとした。だが、これは私の身勝手だが「愛したら愛し返してくれる存在がいるんだ」と思ってからは産む事しか考えてなかった。母親はもちろん猛反対。まだ19だもんね。それを突っぱねてなんとか入籍して9月に息子を生んだ。愛おしかった。守るべき存在が私のところにも来てくれた…と思った。

そこからは毎日手探りで育児をしてた。周りは遊びたい盛りの年頃、オシャレして飲み歩いて…。でも不思議と寂しくなかった。私がずっと欲しかった「家族」を手に入れたから。

息子はかなりの甘えたで、私がいないと何も出来ない子供。言葉も遅い。3歳になっても「ママ」が言えるのは100回のうち2~3回。健康診断でもちろん引っかかり「療育センターで診断された方が…」と言われたが、私もそんな知識ないから行かなかった。

そこから半年して、主婦雑誌の中にヤクルトレディ募集のチラシを見つけた。当時旦那の仕事が不安定且つ息子が実の父親に人見知りしてたから、同じ年代の子と触れ合わせたい一心で働き始めた。そしたらたった3日で息子は溢れ出るように喋りだした。なんだろね?手こずってたトイレトレーニングも完璧。ただ指しゃぶりが酷くてね。右手親指の皮膚が割れて血が出てもずっと。断乳したのも遅かったな。仕事始める前…かな?私は「この子は甘えてくれてるんだ」と思って自然に離れるまで続けてたから。そのタイミングでそろそろ幼稚園…となったから息子に「指しゃぶりしてると幼稚園行けないよ」と言ったその日からピタっとやめた。

いざ幼稚園入ったはいいが、周りは30代以上。そんな人らに「だから若いママはダメなのよ」と言われたくなくて礼儀やらなんやらを叩き込んだ。おかげでうまくやれた。長年「しっかりした人」を演じてきた甲斐があったね。

そうこうしてて、息子が5歳の時に娘を出産。これはかなり計画的。その時自分の排卵日がおおよそ検討ついてたからそれに合わせたんですよ。まぁ見事にビンゴ。

義両親にとっては初の女の子。そりゃものすごくかわいがりましたよ。その時ちょうど義父が膵臓癌で余命僅かだった事もあり、孫に対する愛情たるやものすごかった。

義父が亡くなり、義母はあまりのショックで鬱気味となり髪の毛も抜け落ち仕事も休みがちとなる。しばらくして義父の死亡保険金が入った時に義母が突然「マンション買う」と言い出し、保証人として旦那を利用しようとしていた。

私らとしてはお互い貧乏で育ちクソ狭い借家暮らしをしてたから、「一軒家を建てる」というのがあったんですよね。そこに狂った義母の発言。そんな奴に優しさ出さなきゃいいのに「仕事をこれまで通り続けるなら同居してもいいですよ」とつい言ってしまった。…判断ミス。

土地を買い家を建て、引っ越したのが息子が小学校2年の春。まぁ相場の高いエリアだったのでぎゅうぎゅうだったけどね、私の中では一軒家=幸せの象徴、だったからものすごく嬉しかった。

…いざ同居を、となった時義母は約束を破り勝手に仕事を辞めてきやがってずーっと家にいる生活。二世帯とかではなく普通の一軒家だったので義母の部屋はリビングの横の和室。そこからかね、常に監視されてる、と思うようになったのは。同時に孫にやたらモノを与えてなんとか近寄らせようとしてたのも腹が立った。ご飯前にお菓子与えたり、おもちゃは誕生日かクリスマスと決めてたのを無視して毎日買い与えた。イライラMAX。旦那に少し注意するように言ってと話したら「は?お前が思ってんだろ?だったらお前が言えよ」ですよ。そこで私は旦那に対する愛情が消え去った(あったらしいね、一応)。とりあえずご飯は作るし仕事から帰るまでは起きて待ってた。でもね、もうコイツにはなんにも相談出来ねーってわかっちゃったんですよね。それと同時期にヤクルトでの集団イジメも始まる。ボス的なおばさんを中心に5~6人が固まり聞こえるように悪口を言う、商品(ヤクルトは自腹で仕入れ、それを売った売上の確か4%が利益となる)を隠されたりわざと破損させられる。それは我慢した。もう無理だと思ったのは託児所にいた娘に対する虐待が発覚した事。目立った暴力とかはなかったけどつねったり先生が見てないとこで殴ったり…。だんだん怒り通り越して呆れたよ。なんてガキなんだと。だけど当時の社員はおばさんの味方をしてたから相談する相手もなく1人で抱え込んだ。

…そしたら鬱になった(´∀`*)

しばらくは薬でなんとかなってたが、酒の量が増えた。それも無自覚。その時ちょうどdocomoがiモードというのを始めるとかでネットが使いやすくなるのもあり、登録してたサイトにあったチャットにはまる。グループチャットね。そこにハマり気を紛らわしてた。

娘が3歳になる年に区立保育園に通り、ヤクルトを辞めて半年ぐらい何もしなかった。家事はしましたよ。仕事をしなかっただけ。朝娘を保育園に送った足でお台場や湘南へ行き酒を飲む。それが当時の最大の開放感。まぁそうは言っても私の小遣いを捻出出来る程旦那の稼ぎがなかったので半年後にテレアポの仕事を始めた。ノルマがキツかったけど楽しかった。…と同時に夜になるとなんとも言えない感情になり、リスカが始まる。毎晩子供らを寝かせてから暗闇でひたすら切る。血が流れてるのを見て「あー、私生きてるんだ」と感じ、ほっとする。旦那とは別に寝てたから奴は知らなかった。それに冬場で長袖だったから見えなかったしね。それをいい事にいつの間にか両腕の皮膚が見えないぐらいの傷をつくり、当時通っていた心療内科で入院を勧められ、人生初の閉鎖へと入院する。


…しんどくなってきたからここで終わります。

次は退院してからをゆっくり書きますね。

長々とお付き合いありがとうございます(*´ω`*)



…あー…ネギトロ丼食べたい(笑)



それではまたね♪




ただただグダグダ書いてるだけですが、サポートしていただけたら碧は天にも昇る気持ちになって、調子にノリ、どんどん出しまくりますよ😁