自分が綴った言葉について考察する
気付いたらぼちぼち続けていたX旧Twitter。
ここでは、日常のあれこれや思考の全てを吐露しています。
この前、蒼井ブルーさんという方のエッセイ本を読みました。自分の生活の中に零れているものを言語化して、解説をしたような本。
面白かったので、私もやってみます。
あ、くだらない私のポストが気になる、
物好きなあなた(このnoteを読んでいる時点で
あなたはとんでもない物好きだと思いますが)は、ぜひXも覗きにきてください。
あわよくば、フォローもお待ちしています。
p.s
私は『よく分からない』と言われる側の人間であることは良くも悪くも理解しています。
だから綴るよ。同時に読むのも自己責任。
お互いに文句なしでいきましょうね。
それについては、目次、主張と思いやりの関係性 にて執筆しています。
人生でいちばんの貴方の話
大好きだった元恋人と演奏会で再会して、
サシ飲みしてきた。
やっぱり人生で1番好きになる人だと思う。
もう元の関係性には戻れなくても、お互いにとって1番居心地のいい存在だねって話をしてくれました。
彼とは、高校1年生の冬に付き合って、
高校3年生の夏にお別れをしました。
同じ部活の同じセクションの人。
どうして私を選んでくれたの?
と彼に聞くと、
ひたむきに頑張る君のことを、
気付いたら目で追っていた、と。
私にとって、彼という存在は、初めて自分の中身を真っ直ぐに見てくれた人でした。
そんな彼との時間は、全てが特別で幸せな日常の塊だったことを覚えています。
部長を務めていた当時の私は、ほかの部員よりも少しだけ帰宅時間が遅め。それでも、寒い冬空の夜、プレゼントしてくれたおそろいのマフラーをした彼が、帰りを待ってくれている。これを幸せと呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。
大好きだった彼との別れは、
後輩が面白半分に作ったデマが原因。
悔しくて、涙が止まらなくて。
どうして一緒に過ごしてきた私ではなく、
その子を信じるんだよ、と。
別れた後は、多少の和解をして同期という関係性を築いていました。が、諦めきれずに卒業までは猛アタック。離ればなれになってからは、ほかの人と付き合っては別れてみたりとかして。
そんな時に、再会した、あなたときたら。
当時の想いが溢れて、止まるわけが無いだろう。
飲みの誘いは彼から。
当時の思い出話に花を咲かせて、笑いあって。
あぁ、あの頃の私たちみたいだな。
つい浸ってしまう微睡み。
あの頃と同じように繋がれたその手は、
もうあの頃と同じではないことを、
この瞬間に察してしまいました。
恋は盲目、とはまさに言葉の通りで。
私が好きだったあなたは此処にはいないし、
あなたが好きだった私も此処にはいない。
同時に、あの頃と変わらない温もりを感じてしまったから、その事実が余計に心に沁みていました。
私は、あなたを愛していた。
ずっとずっと想っていた。
何よりも、誰よりも。
だから、綺麗に終わらせよう。この恋だけは。
その日から私たちは 友達 になりました。
また次会うことがあったら、
その時はまた飲みに行ったりしようね。
カラオケもいいな。
もし、新しい恋人ができたら教えてね。
そんな口約束をして。
本当に愛おしかったです。
21年しか生きていないけれど、断言出来る。
私にとって、人生一番の恋でした。
生きている人の数だけ『強さ』がある
表情豊かで喜怒哀楽を素直に見せてくれる人は
凄く人間らしくて素敵だなと思うし、キラキラして見える人でも裏ではいろんな葛藤抱えて努力してたり、泣いていたり。
その弱さを見せないプライドも、私は凄くかっこいいなと思う
就職活動をする中で、自分はどのような人間でいたいか、ということを考えることが多かったように思います。
私は泣き虫。
そんな自分が情けなくて、あまり好きではない。
それは今でもそう。
部長や学級委員。リーダーを務めることが多い人生の中で感じていたことは、
___泣いている弱虫を、
誰が頼りたいと思うのか。
任せたいと思うのか。
ということでした。
だから、誰かの前では絶対に涙は見せない。
そう決めて生きてきました。
でも、アルバイトや課外活動の中で、沢山の人と出逢い、価値観に触れて思考した時、果たして今のこのプライドは必要なのだろうか、と悩んだことがあります。
素直に感情のままに生きていくことへの勇気。
笑いたい時には笑い、泣きたい時には泣く。
感情を零すこと。
もはや、涙は強さ。
それが凄く美しくて、羨ましかった。
私も、こういう涙を流せる人でありたかった。
これまでに『泣く』という行為を、美しいと思ったことがなかった。情けないことだとさえ思っていました。(人に対しては思わないけれど)
でも、最近は、『できない』『苦手』に対する価値観が変わって、自分の弱さも認められるようになってきて。
そういうことこそ、誰かの力を借りてもいい。
誰かと頑張ってみたらいい。
頼れる、たった1人とだってかまわない。
それぞれの生きてきた人生の中で、すべてが正解になり得る。だから、最善策の定義もダサいの正義も、実は元々存在しないのかも。
きっとその定義は自分でつくるものだから。
これは愛か、情か。
いつまでもぬるい湯船から抜け出せないこの夜に、別れたいはずなのに別れられないだらしなさを思い出した
今の私たちって、情で出来ているよね。
そんなことを、
パートナーと話したことがあります。
付き合って時間も経った。
一緒にいる時間もずっと長い。
確かに、あなたがいると毎日は豊かだ。
でも、この豊かさの理由があなたである必要はあるのかな、とか。
お互いがお互いの日常に
溶け込みすぎてしまいました。
その当たり前が当たり前ではないことを
自覚するためには想いが足りない。
寂しくて、悔しい。
きっと離れればまたあなたを求めるはずなのに、
今はそれが見つからないなんて。
あなたと話したこれからのふたりのこと。
私たちを包み込んでくれる人たちの存在。
それこそ、一緒に大事にしてきた思い出や時間。
大切にしてきたものたちは "しがらみ" になってしまうのかもしれないな、と悲しくなりました。
一緒にいる時間は『愛』ではなく、今までが創り出してくれたものが派生して生まれた『情』に変わってしまった気がして。
きっと、私たちは一緒に居ることが、
いつからか負担になっていたのかもしれない。
それでも私はこう思う。
あなたでなくてもいいことを、
あなたとするから価値が生まれるのだ、と。
だから、もう少しだけ。
その優しさとあたたかさに、
甘えていたいと思ってしまった夜でした。
お揃いの気持ちは誰とでも
つい強がってなんでもないフリをしてしまうけれど、 本当は思うよりずっとあなたが好きだし、思うよりずっと寂しい。少しくらい、あなたの特別を願っても良いだろうか。
意外と(?)人見知りなんですよ、私。
そんな私だからこそ、
誰かとお酒を飲むことが好き。
いい意味で『酔い』を理由にして、
相手の本音と自分の本音を交わし合いたい。
私がお酒を飲みたいと思う相手は、
もっとあなたを知りたい、と思える人。
そう、あなたとお近付きになりたいのです。
私は友達が少ない。
し、正直欲しいと思うタイプでもない。
それが故に、私にとってはあなたという存在が、きっと必要以上に大切に思えてしまうなぁ。
勿論、依存はしない程度に。笑
でもね、だからこそね。
あなたにもらったこの居場所が、あなたにとっても居心地のいい場所であったらいいなと思う。
主張と思いやりの関係性
何かを主張することはそうではない誰かを否定することになるのでは、という考えの元生きていた結果、では自分は何処に存在しているのか?という問いにぶちあたった。
あるテーマに対して思考をしていたときの話。
それは果たして、正義か、悪か。
答えが二極化するような話題は、この世に沢山存在していると思う。(勿論、倫理的に考えてアウトやろ。ということも山程あるのだが、一旦それはなしとする)
感覚的にもっと分かりやすいところで言うと、
私が気に食わないアイツも、
誰かにとっては大切な人なのだ。
だから決して、アイツと、アイツを大事な誰かが傷つくようなことは思ってはいけない。
となると、そう思っている自分がまるで悪に思えてきて、必死に制御しようとする。
気付いたら、自分の感情や想い、大事なパーツを塞ぎ込んでしまって、それが限界を迎えた時に辿り着く先はなんだか虚無。
私って、本当に情けないな。
こんなことしか思えない自分、何者なんだよ。
(前提何者でもないんですけどね)
私の軸は人。
誰かがいて、初めて自分が存在できるという価値観のもとに生きているから、自分がまるで信念を裏切っているように感じていました。
…そういえば、ドラマか何かで、このような台詞が話題になっていた気がする。
_言っちゃいけないことはたくさんあるけど
思っちゃいけないことはない。
だとするのならば。
きっと "思いやり" というのは、
思ってはいけないというわけではなくて、
思った先で自分がどのように人と関わっていくか
ということなのかもしれない。
その上で何かを主張していくことは必要なこと。
いつか自分が本当に此処に存在しなくなってしまうから。
私はこう思う、があっていい。
ちゃんと持ち続けていたい。
相手を心で思いながら、
自分を大切にしていく生き方を選択しよう。
最後に
言語化すること、
写真を撮ったりすること、
撮られたりすること。
そのすべては、表現への興味から始まりました。
表現は人を、世界を変える可能性がある。
届けば、何かが変わるかもしれない。
その可能性について追求することは、
とても面白そう。ワクワクする。
これからも続けていきます。
自分のポストを深堀してみるのは面白い。
言語化って疲れるんですよね。
とても頭を使うことですし。
別にやらなくてもいいんですよ。
誰に頼まれた訳でもないし、
本来であれば、この行為は他者に需要がない。
だけどやっぱり、
自分が何を見て何を感じてきて、
どう考えているのかを改めて考えてみること、
落とし込んでみることは面白かったりする。
どうせなら、本気で向き合ってみよう。
きっと価値はある。
それではまた次回。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?