関口良雄さん「昔日の客」を読んで
関口良雄さんの随筆集「昔日の客」を読む。
ご自身で営まれていた古書店を通じて知り合った文士達や、本を愛する市井の人々との触れ合いを静かに綴った文章に親しみが沸いてくる。
またこういう本を読むと、自分が今まで知らなかった作家への扉も開いてくる。私は趣味は読書といいながら偏りが激しいタチなので、全く読んでこなかった作家もとても多い。今回も関口さんの著書から敬愛されていた事が伺える尾崎士郎が書いたものを読んでみたいな、などと思いメモを取っている。
文体の読みやすさというのもあるだろうか。
ご本人の日記を読ませて貰っているかのようで、文豪たちとの何気ないやり取りも気負いなく読ませてもらえる。”難しそう”と決めつけて敬遠してきた作家を身近に感じられるのは、こういった逸話を読む中で親しみを感じるからなのかもしれない。
もうひとつ、懐かしく好ましい思いをしたのが、時間の流れが穏やかと感じた事。これはもう「感覚」でしかないけれど、高速ネット社会を生きている身からみれば、時間軸のおおらかさが羨ましいと思ってしまう。関口さん自身は私の両親より少し上の年代かと、引き寄せて想像してみたりする。
語られる中で作家へ蔵書の署名を依頼する箇所がある。そこでは具体的な日どりの約束をとりつけずに自宅を訪ね、留守だったので仕方なく依頼の本だけ置いてきた、と語られている。また、古書店の客や近所に住まう作家の家をてらいなくふらっと尋ねたりする。それに似て、ある日落ち葉拾いに興じて通りかかった庭の落ち葉が欲しくなり、「拾わせてください」と見ず知らずの人の家の呼び鈴を鳴らす。
私にいま同じ事ができるだろうかと考えて、「いや、できない。」と思う。
ネットや携帯がないと不便だと思い込んでいるし、見ず知らずの人の中にいきなり飛び込んで交流を図るようなパワーも衰えてきた。そして「待つ」行為を楽しむ余裕や、人との偶然のふれあい、勘違いや間違いへの寛容さをどんどん手放していっている気がしているからだ。
関口さんが”そういう”性格なのかしれないけれど、昔日の客で語られる人たちには、つながりに躊躇がない分関係も近い。そこで生まれた逸話だからこその親密さがこの文章に滲んでいて、気持ちが緩くなり時間もゆったりと感じるのだ。
令和の時代、こんなやり取りも簡単ではなくなってしまったんだなぁと考えて寂しく思ったりもする。でもいつか私も、私なりの親しみある文章を書いてみたいと、別の視点で刺激を受ける読書になった。