「寂しさ」を恋の味方につけて (閑吟集29)
「恋の行方を知るといへば 枕に問ふも つれなかりけり」 (閑吟集)
人間の感情を表すのに、「喜怒哀楽」という言葉が使われるが、
この中に「寂しさ」という感情が含まれていないのは、なぜだろう。
「哀しさ」に近い感情だからだろうか。
否、この「寂しさ」はもっと始末におえず、
そして時として味方になる感情になったりもする。
「喜怒哀楽」よりももっと複雑なもの。
新しい恋が生まれる時は、男と女の寂しさが
二人をひきつけ、めぐり合わせて
そして恋の灯をともす。
たとえ、ちぎれた恋の寂しさが、新しい恋への引き金であったとしても
その先にある喜びがそれまでの寂しさを忘れさせてくれたなら、
それまでの「寂しさ」の役割はそこで終わる。
そして、恋が始まれば、また新しい「寂しさ」がやってくる。
逢えない時の寂しさは、また始末におえない、困った代物。
しかしその寂しさが、逢えた時に互いの体を抱き合い、
くちづけを交わす力を呼び起こす。
恋が終われば、もっと激しい「寂しさ」がやってくる。
そのときの寂しさは、まるでこの世にただ一人、
誰も自分を見てくれる人はいないとまで、思いつめることにもなる。
けれどもその寂しさが、
また二人の間に、ふたたびの恋の灯をともすかもしれない。
あるいは新しい恋の罠にはまってしまうのかもしれない。
寂しさとは、蜘蛛の糸。囚われて食べられてしまう。
そんなことはかまわず、囚われてしまったら良いのだ。
そしてまた、ふたたび一人でいるときの
寂しさを繰り返す。
寂しさの繰り返し。
でも、寂しさを味方につければ、こんなに強い味方はいない。
「恋の行方を知るといへば 枕に問ふも つれなかりけり」
(閑吟集)
恋の行方を知っていると言うから、枕に聞いてみたけれど
何にも答えてくれないじゃない。
寂しさを上手に味方にして、
あなたの枕に問いかけてみると良い。
その枕に、いつかきっと
あなたの大切な人が共に頭を載せてくれるだろう。