シェア
たかはたあきこ 1979年1月18日生まれ。山羊座。 5才くらいの時、横断歩道を渡っていたら、車にはねられる。 頭を打って痛かったのだけれども、動揺激しい母と、 とんちんかんな質問をたくさんする看護師さんを前に、 頭が痛いと言ったら大変なことになると思って言えなかった。 そんな少し冷めた外からの視点を持つ子どもらしくない子ども時代を過ごす。 母方のおばあちゃんは第六感が敏感なひとだった。 手相や人相にも詳しくて、昔ながらの智慧を携えていた。 そんなおばあちゃんが大好きだ
2023.5.17 夕飯のとき、 ナチュラルサイキックな娘が 「今日、視力検査やったんだよ。 すごいんだよ!目が良くなってたの!!」 と、嬉しそうに言った。 娘はずっと、 1.2と1.5をキープしていたから、 視力が0.1満たないわたしにしてみれば、 十分に目が良いのだけれども、 「1.5と2.0だった〜!」 とにこにこしてる。 すごいね〜!と本心から感動して伝えたら 「直感でね、 なんか下っぽいな、とか 上な気がする〜って思って 答えたらあってたの〜」
娘は決断が早い。 ぱっと決める。 迷いがほとんどない。 え?いいのそれで? もっと見なくていいの? もう少し考えなくていいの? と、いつもつっこみたくなるけれども、 これ!と思った直感に、 わざわざ あれこれ思考をのせようとするのは わたしのくせで どう考えても 娘の即決のほうが 本質的な気がしている。 だから聞いてみた。 「〇〇ちゃんはさ、ものを選ぶときに どうやって、これ!ってわかるの?」 そしたら 『ふたつで迷うときは、これで(手を動かしてみせる)、
怒涛の変化の流れの中にいる。 あたまではもうついていけないから あたまではなにもとらえようとはしなくて ただ流れるままに委ねて ときに、どっちかなと確認したり 起こることを俯瞰してみたり でもあたまでは思考しないように ふ~ん、そうなんだ~わたし、 というような日々。 そんなとき あまりにいろいろ つかみどころなく怒涛の日々が過ぎていくから わたしはこれでいいと思っているけど、 でもこれでいいのかな、と思って わたしの師匠、娘に訊いてみた。 私「ねー、きいてもいい?
2022.12.6 おなかぺこぺこの娘11才(師匠もうすぐ12才)。 夜ごはん前の会話。 お弁当に入れたのこりの、 近所の自然食品やさんの、 店舗で揚げているおいしい厚揚げが 1個残っていて、 明日のお弁当にまた入れようかと思っていたら 「今日食べたい気分♪」と 娘が言うので、 ちょっと渋ってみたけど (お弁当のおかず1品をラクできるから) でも 「今日食べたい気分!」と 一歩も譲らないので、 「食べていいよ〜」と 引き下がった。 でも 小さめ1個しかないから、
「そろそろ、大人用の大きいライアーがいいかと思います。」 娘のレッスンの同伴で、 そう、ライアーの先生に言われたのが、2ヶ月ほど前のこと。 わたし:「え、あ、そうなんですね… ちなみに、だいたい、 いつくらいまでにはあるとよさそうですか?」 先生:「注文して8ヶ月から1年くらい待つこともあるし、 楽器は、出逢いですからね。 でも、そうですね…5年生くらいにはあるといいかもしれませんね。 からだも大きくなってきているし。」 わ
千と千尋の神隠しの主題歌となった 「いつも何度でも」 木村弓さんは、 ライアーという楽器を奏でながら その美しい歌をうたっていた。 映画も主題歌もとても好きだったけれど、 あのときは、 その楽器が「ライアー」という ものだということは まったく知らなかった。 それから、何年かして、 まだあかちゃんだった娘が 出逢ったライアーのあかちゃん キンダーハープ そして出逢った おかあさんライアー 実物の響き。 鳥肌が立つような、ぞぞぞ加減で、 もう、全身のちからが抜けて、
娘10才は、 けっこうナチュラルに、 見えない世界との繋がりを 保っている子で。 たいてい、 朝早く、まだぼーっとしているときや、 夜、もう眠くて半分以上、意識が夢の国に行かけているとき、 とても興味深いことを話したりする。 意識が穏やかで平安で静かなとき、 なのだろうか。 つい最近も。 お風呂上がり。 (このタイミングは多い) 「たましいのひとつぶ」の話を娘が語っていて。 ↑そもそも、なんでそのような話になったのか… しばらくひとりで語っていて、 わたしは、うん、
我が娘は、 小さなころから、 夜寝るとき、 絵本を読み終えると、 本を閉じて、 布団をかけ直して、 「おやすみ。またあした。」 と言って、目を閉じる。 とてもあっさりと。 「じゃあ!」みたいなかんじで。 初めて、この光景に出くわしたときには、 たしかまだ4-5才くらいだったと思うけれども、 心底びっくりして、 心の中で、 「え!!どこに行くの???」 「明日まで、会えないの???」 と、 わたしの方が「夜という見えない時間」と、 「眠りの国(夢の国)」という、
毎日、電車で学校に通う娘。 これまでずっと朝は、学校まで送っていたけれども、 ここにきて、急にひとりで通いたい気持ちがぐんぐん増して、 少しずつ挑戦。 乗り換え駅までの送り迎えを繰り返した後は、 我が家の最寄り駅まで、ひとりで帰ってきた! そして今日。 朝は、いつものように乗り換え駅まで送ったけれど、 「帰りは家までひとりで帰ってくる!」 と、意気込み、改札で手を振った。 そしたら、思いがけず、午後から冷たい雨。 けっこう、ざんざかしっかり降ってきたから、 こんな冷たい
我が家には、 毎月1日になると、カレンダーをめくる、こびとさんがいる。 季節の変わり目には、季節のテーブルのしつらえを変える、こびとさんがいる。 春のしつらえ。 梅雨のしつらえ。 夏のしつらえ。 秋のしつらえ。 冬のしつらえ。 作りかけていた手仕事の、最後のむずかしいところを仕上げてくれる、こびとさんがいる。 夜寝ている間に、食べかけのおやつを食べてしまう、こびとさんがいる。 抜けた歯を窓ぎわに置いておくと、外国のコインやきれいな石に交換してくれる、妖精さんがいる。
子育てって ちいさなちいさなことの積み重ね。 積み重ねるのは 手間も じかんもかかる。 こつこつ ていねいに。 こころもかけて 目もかけて 手もかける。 でも 崩すのは一瞬。 あっという間に 例外、特別が 日常のあたりまえに入り込む。 例外は、わるくない。 特別は、わるくない。 大事なのは そのあとの 戻れる「日常のリズム」を 土台として 安心として 積み重ねの中でつくっていけるか、 なんだと思う。 娘、もうすぐ10才。 10年の積み重ね。 わたしの実験、み
今年の初めころだっただろうか。 娘が「教会に行ってみたい」と言い出した。 きっかけは、本の中に出てきた「洗礼式」の様子。 わたし自身、高校生のときにアメリカでホームステイを1年ほどしていたことがあり、 そのときに、数えるほどだが、教会へ足を運んだことがある。 司祭さんから語られる話の内容は、 もちろん全て英語だったし、 理解には程遠かったが、 あたたかで、 参列している人たちの愛に満ち溢れている様子、 静謐な空間はとても好きだった。 しかしながら、 宗教のはなし、とな
朝の公園から、ぶらんこの帰り道。 わたしがぽつりと、 「ヘナをしに行きたいなぁ。 でも、駅の近くにあるかなぁ。」 とつぶやいた。 そしたら娘が言った。 『調べてみて、いくつかお店を紙に書き出してみたら? それで、書いた名前の上を、ふたつずつ順番に指で触っていって、 どっちのお店が緩むかなぁってやるの。 最後に残ったところが合うところだし、 どこも緩まなかったら、ないってこと。』 !!! これ、以前わたしが娘に教えた、 自分のからだに合う野菜の見分け方!! (