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27.賢人は大体同じことを言っている~「レヴィナスと愛の現象学」の一つの読み方~
我が師、ジャック・ラカンは知る人ぞ知る難解なテクスト書きとして謳われる。
というのも、そのテクストパフォーマンスは読む人を決定的に別人にしてしまうことを目指しているためだからだ。
人が人の精神に立ち向かう時、今まで使っていた語彙のみならず、その文法や構造の大幅な改鋳が必須になる。
本格的にラカンに触れるようになって約半年、ようやくそれなりにラカンを俯瞰できるようになってから、以前に読んだ内田樹老師のレヴィナス本の一つ、「レヴィナスと愛の現象学(文春文庫)」を読み返したらびっくり仰天。
全然別の印象や意味側面、顔が浮かび上がってきたではないか。
特に最後の方の愛についての議論は、内田先生が「最後の方はレヴィナスの論理展開のステップの複雑さについてゆけず、気息奄奄になってしまった」とあとがきに書くほどに難解であり、かつて読んだ際は歯が立たなかった。
それまでのフッサール現象学関連や、タルムードの話などはふむふむと納得して読めたのに対し、後半の「女性と主体」章の最後ははっきり言って訳が分からなかった。
かろうじてサルトル、ボーヴォワール、イリガライらの話はレヴィナスの深遠さよりもずっと表面的すぎたこと(デリダは結構いい線行ってたらしい)は理解できたが、最後の10数ページだけはとても太刀打ちできなかった。
なのに今では結構すらすら分かるではないか!
はっきり言ってしまえば、この女性と官能を説明した部分(「全体性と無限」からの引用)とは、ラカンと同じことを言っていたと今の私には理解されたのである。
かつて内田先生は、レヴィナスとラカンは大体同じことを言っていると考え、「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」という本を書き上げ、鮮やかに他者論を説明して見せたわけだが、この「レヴィナスと愛の現象学」の一番難解と見られる部分も実はラカンと地下水脈でつながる根源的なものだったと(勘違いかもしれないが)私には思われたのである。
そこで、今の段階でこの内田先生のレヴィナス本の一番難解な部分が、ラカン派的に置き替えるとどう読めるか?について、書いて見たく思う。
はっきり言ってNoteの雰囲気から逸脱しているのは間違いないだろうが、後に続く人々への贈り物として、「このような読み替えを行うと分かりやすいよ」という標識として、文章として残しておきたい。
もちろん、ラカン理論の一つの応用として見ることもできるだろうから、ラカンの奥深さの再認となるかもしれないし、ならないかもしれない。
また、あくまでも、現時点での私が読めたことを書くのであって、本道のラカン研究者が以下の文章を読めば「そんなのラカンではない」と言われる可能性がある(というよりその可能性は高いだろう)。
取っ散らかった展開で的を射ないと思われるかもしれない。
それでも、標識として、あるいは未来の私への振り返りの地点として、残しておきたく思う。
対象とするテクストは「レヴィナスと愛の現象学(文春文庫)」P335~352の20Pほどの区間である。
すべてを一度に説明しようとすると大変長くなってしまうため、前半と後半に分けることにする。
1.“私たちはふたたび「顔の彼方」という語に立ち戻ってきた。他者の根源的な出現の様態は「顔」である。だが、その根源のさらに「彼方」がある。根源の根源。それは何か。すでに見てきたように、顔が意味するものは、私があるいは誰かが、顔に付加した意味ではなく、意味の生成という出来事そのものであった。”
いきなり、「ふたたび~立ち戻ってきた」という書き出しのところから説明するのは唐突すぎるが、この文章以降が最難関と見たため、ここから私の説明を始める。
ここで、「顔」→<対象a>に、「顔の彼方」=<現実界(他の2つの界との境界から遠く離れた闇)>として置き換えることで、まさしくラカンの「主人のディスクール」や「欲望のグラフ」と相関する話に置き換わる。
やってみよう。
1解釈.“私たちはふたたび「現実界」という語に立ち戻ってきた。他者の根源的な出現の様態は「対象a」である(そこから幻想が生起し、他者への欲望が私の中で生まれる。欲望は象徴界と現実界の境界である対象a→幻想$◇a→欲望dへと伝達する。)。だが、その根源のさらに「彼方=境界の先の現実界」がある。根源の根源。それは何か。すでに見てきたように、対象aが意味するものは、私があるいは誰か(大文字の他者A)が、対象aに付加した意味ではなく、意味の生成(シニフィエs(A)への伝達)という出来事そのものであった。”
なんと、意味が通じてしまうのである。
こんな調子でテクストを片端からラカン的に解釈していくことにする。
2.“意味という始原の出来事は顔を通じて生起する。顔は何かとの関係を介してある意味を受け取るわけではない。顔はそれ自体で意味する。(・・・)顔を説明する必要はない。なぜなら顔を起点としてすべての説明が始まるからである。(全体性と無限, pp238-239.)”
2解釈.”意味という始原の出来事(s(A)への伝達)は対象aを通じて生起する。対象aは何かとの関係を介してある意味(シニフィエ)を受け取るわけではない(主人のディスクールにおいてシニフィアン連鎖は幻想を生成するS1-S2/$◇a。この幻想によって想像界でのシニフィエを示すのであって、対象aはシニフィアンの次元にはない)。対象aはそれ自体で意味する。(・・・)対象aを説明する必要はない。なぜなら対象aを起点としてすべての説明(すなわちあらゆる幻想$◇a、欲望d、そして意味であるシニフィエs(A)への伝達)が始まるからである。”
3. “存在者の根源的な意味生成は(・・・)具体的には全否定への誘惑として、また他なるものとしての他者の殺害への無限の抵抗として、無防備な眼――つまりもっとも柔和でもっとも剥き出しにされたもの――の断固たる抵抗を通じて、生起するのである。(全体性と無限, pp204.)”
3解釈. “存在者の根源的な意味生成は(・・・)具体的には全否定への誘惑として、また他なるものとしての他者の殺害(現実界の共通項のない=象徴的に表せない他者を、想像界での他我=i(a)として把持すること)への無限の抵抗として、無防備な眼――つまりもっとも柔和でもっとも剥き出しにされたもの(現実界へいざなうもの、つまり美や対象a)――の断固たる抵抗(おそらくはシニフィアンに表すことへの不可能性)を通じて、生起するのである。(全体性と無限, pp204.)”
ここまで、顔=対象aとして見立てて、解釈を行った。
その結果、欲望のグラフの説明として、象徴界へと帰着することから逃れ去るものとして、顔=対象aということが示せたかと思われる。
4. “愛は何も把持しない。愛は概念に到達しない。愛は何にも到達しない。愛は主体-対象、私-あなたという構造を持たない。対象を固定する主体としても、可能なものへの投-企としても、エロスは成就しない。エロスの運動とは可能なものの彼方へ向かうことなのである。 (全体性と無限, pp238.)”
愛をラカンの言葉から、「愛とは<持っていないものを与えること>」として、「エロス」を<生成的なもの>つまり<象徴界の構造の変容>として言い換える。
4解釈. “持っていないものを与えることは何も把持しない(なぜならば持つことが不可能だからだ)。持っていないものを与えようとしても何らかの概念に到達しない。持っていないものを与えることは何にも到達しないことである。持っていないことを与えることは主体-対象、私-あなたという構造を持たない(そのような二項対立は想像的な、dualなものであるからだ)。対象を固定する主体としても、可能なものへの投-企としても、象徴界の構造の変容は成就しない(想像界から象徴界は変容しない。象徴界はつねに現実界との関わりから変容する。エロスとは現実界と象徴界の境界の出来事である)。象徴界の構造の変容としての運動とは象徴界から現実界へ向かうことなのである。 (全体性と無限, pp238.)”
5.”「意味しないこと」は「光に背を向ける」ことを根本的趨勢としている。それは「第三者を排除して、二人きりの空間に閉じこもること」という身振りに通じている。それが「官能」の本質である。愛し合うものたちの結びつきは本質的に社会的である。”
光を当てるように物事を理解することは、知の構造であり、象徴界そのものである。
「意味しないこと」はそのシニフィアンそのものではないもの、意味生成の前段階であるため、これは現実界のものであろう。
つまり、ここでいう「官能」とは<シニフィアン>と置き換えることで、主人のディスクールや欲望のグラフを指していると私は解釈した。
5解釈.”現実界は象徴界からすでにつねに逃れ去ることを根本的趨勢としている。それは「第三者を排除して、二人きりの空間に閉じこもること」という身振りに通じている。それがシニフィアンの本質である。シニフィアンたちの結びつきは本質的に大文字の他者Aの法である。”
主人のディスクールはS1-S2/$◇a で表される。
シニフィアンは己でないシニフィアンと結びつくことで幻想を生成する。この時に主体はシニフィアンそのものではなく、シニフィアンの上に現れ、逃れ去る。
対象aがその主体と結びつくことで欲望dに伝達し、幻想はシニフィエs(A)を経由して自我理想I(A)へと到達する。
大文字の他者Aの法がここで関わっているため、これは先ほどの解釈を支持していることが分かる。
6. “官能を通じて恋人たちの間に成り立つ関係は、根本的に普遍化になじまぬものであり、社会関係の対極にある。それは第三者を排除する親密性、二人だけの世界、閉じられた世界、すぐれて非公共的なものである。(全体性と無限, pp242.)”
6解釈. “シニフィアンを通じてシニフィアン連鎖の間に成り立つ関係($◇a)は、根本的に普遍化になじまぬものであり、他者の法(A)の対極にある。それは第三者を排除する親密性、二人だけの世界、閉じられた世界、すぐれて非公共的なものである(すなわち、特異性。あらゆる定型への回収が不可能な個人の幻想を指す)。(全体性と無限, pp242.)”
7. “官能が目指しているのは他者ではなく、他者の官能である。官能とは官能についての官能、他者の愛に対する愛なのである。(全体性と無限, pp244.)”
ここでは「官能」を引き続き<シニフィアン>として、愛を<持っていないことを与えること>として読むことも出来る。
しかし、さらに愛を<欲望>として読み替えるとなお分かりやすいことが分かる。
7解釈. “シニフィアンが目指しているのは他者(A)ではなく、他者(A)のシニフィアンである。シニフィアンとは自身そのものではないシニフィアンを志向する(それとは差異のある)シニフィアン、他者の欲望に対する欲望なのである(私の欲望とは他者の欲望である)。(全体性と無限, pp244.)”
8.”私たちはエロス的関係にあって、ウロボロスの蛇に似た不思議な循環構造のうちに絡め取られている。というのは、愛し合う人々が官能的に志向しているのはそれぞれの相手の官能であり、その相手の官能を賦活しているのはおのれ自身の官能だからである。官能において、主体の根拠は愛するもののうちにも愛されるもののうちにもない。エロス的主体は「私は・・・できる」という権能の用語で官能を語ることができない。というのは、愛において私の主体性を根拠づけているのは、私が「愛されている」という受動的事況だからである。”
8解釈.” 私たちは象徴界の構造の変容の只中にあって、ウロボロスの蛇(あるいはラカンの比喩を借りるならメビウスの輪)に似た不思議な循環構造のうちに絡め取られている。というのは、シニフィアンたちがシニフィアン的に志向しているのはそれぞれの相手のシニフィアンであり、その相手のシニフィアンを賦活しているのはおのれ自身のシニフィアンだからである(シニフィアンはそれ自身のシニフィアンたちとの差異によって基礎づけられる)。シニフィアンにおいて、主体($)の根拠はあるシニフィアンS1にもそれとは別の結合しうるシニフィアンS2のうちにもない。象徴界の構造の変容に現れる主体($)は「私は・・・できる」という権能の用語でシニフィアンを語ることができない(メタ言語は存在しない)。というのは、シニフィアンの結合においてS1の主体性(シニフィアンの存在の正当性?)を根拠づけているのは、S1がS2に志向されているという受動的事況だからである。”
あるシニフィアンが成立する根拠は、ほかのシニフィアンでないこと、つまり差異にある。
シニフィアンを説明する水準というものは存在しない。
シニフィアン自身がおのれ自身の根拠になることもない。
他のシニフィアンあってこそ、あるシニフィアンはシニフィアンの正当性を獲得する。
9.”主体はその自己同一性をおのれの権能を自ら行使することによってではなく、愛されているという受動性から引き出している。(全体性と無限, pp248.)”
ここから、ラカン理論の基本概念の統合である、疎外と分離が説明されていると私は解釈した。
この疎外と分離は主人のディスクールS1-S2/$◇aの成立課程であり、エディプスコンプレックスの通過に相当している。
9解釈.”主体($)はその自己同一性(ラカン的には存在欠如)をおのれの権能S1/S(疎外以前における刻印)を行使することによってではなく、S1-S2(疎外による主体Sの断念の受け入れ)という受動性(すなわち疎外)から引き出している。(全体性と無限, pp248.)”
10.”このとき、主体の主体性を構成しているのは、能動性ではなく受動性であり、おのれの確かさではなく、不確かさである。そして、この官能における決定的な主体の変容をレヴィナスは「女性化」と呼ぶのである。”
10解釈.”このとき、主体$の主体性を構成しているのは、能動性(S1/S)ではなく受動性(S1-S2)であり、おのれの確かさ(刻印によるシニフィアンの水準)ではなく、不確かさ(シニフィアンの水準からの排除、つまり疎外)である。そして、このシニフィアンにおける決定的な主体の変容をレヴィナスは「女性化」と呼び、ラカンは疎外と呼んだのである。”
11.”主体のこの不確かさは主体の自己統制力によっては引き受けられない。それは主体の柔和化、主体の女性化なのである。(全体性と無限, PP.248)”
ここで「女性は存在しない」というラカンの言葉を思い出す。
女性を表すシニフィアンはないということは、主体を表すシニフィアンが疎外によって手放されることと重なっている。
つまり、主体の女性化とは<主体は存在の彼方へと向かう(存在欠如$を受け入れる)>ことを表すと解釈した。
11解釈.”主体$のこの疎外あるいは存在欠如は主体の自己完結(S1/S)によっては引き受けられない。それは主体の柔和化、主体の女性化、つまり主体は存在の彼方へと向かうのである。(全体性と無限, PP.248)”
12.”レヴィナスが「女性」と名づけてきたものは経験的な女性ではなく、存在論的カテゴリーである、ということを私たちはここまで繰り返し書いてきた。それがどのようなものであるのか、ようやくその輪郭がはっきりとしてきた。「女性」とは受動性を糧とする主体性-あらゆる主体性に先行する主体性-の別名なのである。”
ここで「女性」を「シニフィアン連鎖におけるシニフィアン同士を結び付けているもの」として、つまりS1-S2でいうところの間にある<->であり、つまり<シニフィアン結合>であると私は覚知した。
シニフィアン結合そのものはシニフィアンではない。
つまり、存在しない。
「女性は存在しない」というラカンの言葉とも一致を見せる。
この文以降、「女性」を<シニフィアン結合>と、「男性」を<シニフィアン>として置き換えることで象徴界の無意識の構造を表す言説として解釈が出来るはずである。
12解釈.”レヴィナスが「女性」と名づけてきたものは経験的な女性ではなく、存在論的カテゴリーである(そして解釈にてラカンの疎外の契機、シニフィアン結合と言い換えることが出来る)、ということを私たちはここまで繰り返し書いてきた(詳細は書籍を読んでほしい)。それがどのようなものであるのか、ようやくその輪郭がはっきりとしてきた。「女性」とは「シニフィアン結合」であり、受動性を糧とする主体性-あらゆる主体性(「男性」として表されるシニフィアン)に先行する主体性-の別名なのである。”
13.”場所を得ることから始まった主体性の劇的変容がエロス的関係の中で生起する。自らに場所を与えることを通じて、『ある』の匿名性を停止させ、光に向けて開かれた実存の一様態を確定した男性的・英雄的主体性がここで変容を遂げる。(全体性と無限, PP.248)
場所を得ること、その場から逃れ去ることで場所を与えるものを「女性」と本書では呼ぶ。
つまり、<シニフィアン結合>の導入が、場所を得ることと置き換えられる。
それとは対比される男性的・英雄的主体性とは、想像的な自我の理想像、つまり想像的ファルスφと解釈した。
13解釈.”シニフィアン結合の導入から始まった主体性の劇的変容は、象徴界の構造の変容の中で生起する。自らにシニフィアン結合を与えることを通じて、『ある』の匿名性(すべてを記号的刻印によって表し、すべてが自分であること)を停止させ、光(知の構造、象徴界)に向けて開かれた実存の一様態を確定した男性的・英雄的主体性(想像的ファルスφ)がここで変容を遂げる(φ→象徴的ファルスΦ)。(全体性と無限, PP.248)
14.”「男性的・英雄的な主体」はあらゆる経験を通じて、私としての同一性を保ち続ける。だが、それは言い換えれば、私は私でしかなく、私自身に釘付けにされているということでもある。いわば男性的な私はすみからすみまで私で充満させられている。私自身によって全身を満たされていることによる私のこの窒息状態 (encombrement de soi) からの解放はエロスによってもたらされる。”
14解釈.”想像的ファルスφはあらゆる経験を通じて、私としての同一性を保ち続ける(想像界におけるdualな関係)。だが、それは言い換えれば、私は私でしかなく、私自身に釘付けにされているということでもある。いわば想像的ファルスφとしての私はすみからすみまで私で充満させられている(想像界はすべてが私と区別がつかない)。私自身によって全身を満たされていることによる私のこの窒息状態 (encombrement de soi) からの解放は象徴界の構造の変容(あるいは、φ→Φという父の名の導入としても解釈可能かもしれない)によってもたらされる。”
15.”エロスはこの窒息状態から解放し、私の自己回帰を停止させる。(全体性と無限, PP.248)"
15解釈.” 象徴界の構造の変容はこの想像界の窒息状態から解放し、私の自己回帰(dualな関係における永遠の闘争状態)を停止させる。(全体性と無限, PP.248)"
16.”(・・・)おのれ自身によっておのれを基礎づけることができないと告白すること、おのれの起源がおのれのうちにはないことを受け容れること。このとき私は身を投げ出すのだが、それは身を投げ出すという冒険的経験を通じて、私自身を富裕化したり、より確固たる存在に鍛え上げるためにそうするのではない。それは「帰り道のない」(sans retour)自己放棄なのである。この自己放棄はそれにもかかわらず、自己富裕化とは違う種類の繁殖性を期待してなされている。「自己同一者の未来とは異なる私の未来」(全体性と無限, PP.245)がそこには望見されている。「私ではない私」の出現が確信されている。レヴィナスはそれを「息子」(fils)と名付ける。それは(ほとんどの論者が誤読しているように)、経験的な家族関係における男子のことではない。それは男性的・英雄的主体がエロス的経験を通じて、おのれの根源的な受動性、被造性の覚知に至ったときにはじめて結実する「私の未来」のことなのである。”
再度、これまでの議論を総括した上で、「息子」という鍵概念を説明しようとする。
これはラカン的にはどのような概念に置き換えるべきなのだろうか。
この時点ではまだその「息子」の占める位置は示されてはいないが、その後の展開からおそらくは、<対象a>ではないかと考えられる。
それは、ラカンがマルクスの労働の比喩を用いて、対象aを剰余価値になぞらえて剰余享楽と呼んだことのように、主人のディスクールS1-S2/$◇a でシニフィアンS1がS2と結びつくことによってその生産物として対象aが生まれる(そして幻想を形成する)ことを想起させた。
ここで先ほどまでの議論において、S1,S2…はそれぞれシニフィアン(男性)であり、<->はシニフィアン結合(女性)である。
官能によって男性的・英雄的な私は女性化し、「私ではない私」、「息子」が出現されるという。
つまり、シニフィアンがただ一つであることを断念し、シニフィアン同士が結合を果たすことで、<存在欠如>としての主体$および対象a、その二つが関係する幻想が生起することと類似の構造ではないかと考えたのである。
16解釈.”(・・・)おのれ自身によっておのれを基礎づけることができないと告白すること、おのれの起源がおのれのうちにはないことを受け容れること(メタ言語は存在しない)。このとき私は身を投げ出すのだが、それは身を投げ出すという冒険的経験を通じて、私自身を富裕化したり、より確固たる存在に鍛え上げるためにそうするのではない(自我強化ではない)。それは「帰り道のない」(sans retour)自己放棄なのである(S1/Sを断念すること)。この自己放棄はそれにもかかわらず、自己富裕化とは違う種類の繁殖性(労働、あるいは剰余)を期待してなされている。「自己同一者の未来(想像的な関係)とは異なる私の未来(象徴的な関係)」(全体性と無限, PP.245)がそこには望見されている。「私ではない私」の出現が確信されている。レヴィナスはそれを「息子」(fils)と名付ける(おそらくは対象aを指す)。それは(ほとんどの論者が誤読しているように)、経験的な家族関係における男子のことではない(家族関係を鋳型として、人を変容させようとすることは、ラカンとレヴィナスに共通の企てであろう)。それは男性的・英雄的主体(想像的ファルスφと区別のつかない自我としての私, S1/Sとしての疎外前の主体)が象徴界の変容経験を通じて、おのれの根源的な受動性、被造性(シニフィアンは他のシニフィアンとの差異によって名指される)の覚知に至ったとき(分離)にはじめて結実する「私の未来(対象a)」のことなのである。”
ここまでがテクストの前半部分である。
ここまでの説明を通してみると、主人のディスクールS1-S2/$◇a、欲望のグラフについて、その成立過程を語っているものと私は考えた。
後半は対象aから現実界へと移行することが示唆されている。
詳しくは、次の記事をお待ちいただきたい。