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21.差別という言葉の力
「色を見分ける能力が低いことを理由に、色を見分ける仕事に付けないのはおかしい。差別だ」
— 植田清吉GX-T (@shakeeach) December 30, 2024
就職指導していてときどきこういうことがあるのです。どう説明したらよいものか。
マジレスすると、
— DoGA (@DoGA_CGanime) December 30, 2024
大学の教養課程で学んだ“差別の定義”は、
「同じものに、異なる扱いをすること。あるいは、異なるものを、同じ扱いにすること」
です。
能力に違いがあれば、仕事に差がでるのは区別であって、差別ではありません。むしろ、能力が異なるのに、等しく扱えば、そちらが差別です。
色覚特性を持つ人の採用をお断りする仕事に対し、色覚特性を理由とする就労制限は「差別」であり不当な制限であるとする主張があるとX.comにて見聞きした。仕事に必要な要件に、定型発達の色覚でないと仕事が困難あるいは不可能な条件があるため、残念ながら色覚特性はお断りせざるを得ない(もし採用する場合、仕事が成立しなくなるため)。この話に関連して、”大学の教養課程で学んだ“差別の定義”は、 「同じものに、異なる扱いをすること。あるいは、異なるものを、同じ扱いにすること」であり、能力に違いがあるのに同じように扱うことはむしろ差別にあたる”という意見を目にして、正しくこの通りであると大いに納得した。というのも、最近の私の拙い考えではあるが、差別とは「異なる」とするよりもむしろ「同じ」とするもの、すなわち同一者への還元の企てのことではないかと考えていたためである。
例えば、黒人と白人は同じ人類、国民、共同生活者であるが肌の色の違いによって社会的な分類が異なるものとされ、取り扱いも異なってきた歴史が世界中に存在する。日本ではアイヌと本土人がそれにあたり、社会的な分類が異なるものとされて、やはり取り扱いも異なるものとしてきた。しかし、これらの見方をひとひねりしてみることを試みると”異なる”という見方から”同一”という見方へと変換できる。白人と黒人は「優遇される社会的分類への還元」と「優遇されない社会的分類への還元」であり、ここに黄色人種への適用を試すと、後者の優遇されない分類にほぼ自動的に還元され、黒人でないのに黒人と同一者として還元され扱われる。同様の事は第二次大戦中のドイツの収容所への収容基準にも伺える。はじめ、収容基準は「ユダヤ人」と分類された者であったのだが、ナチスにとって都合の悪いものたち(例えば障碍者、同性愛者、反体制派)も同様に「ユダヤ人」として扱われて収容所へと送られ虐殺されている。戦争が進展し、ドイツが劣勢になるにつれ「ユダヤ人」基準はより広範になっていき、末期の敗戦寸前のドイツ首脳部では「ヒトラーこそドイツを敗北させようと試みる陰謀的ユダヤ人である」という言説すら生まれるほどであり、反ユダヤプロバガンダをただの道具として見てきたはずの宣伝大臣ゲッペルスすらもユダヤ人陰謀説を本気で信じこもうとするほどであったと言われる。
それでは、現代日本のネット言説での差別用語について見てみよう。ネトウヨ、ブサヨ、韓国人、朝鮮人、中国人、共産主義者、金の亡者、厨二、老害、糖質、メンヘラ、情弱、弱者男性、フェミ、チー牛、キモオタ……大変様々な属性を表す言葉/シニフィアンが差別的に使用されており、挙げようと思えばいくらでも挙げられそうである。ところで、ある人物(私の師匠の一人)は右翼的な者からは「ブサヨ」として蔑まれ、左翼的な者からは「ネトウヨ」扱いをされるという不思議な立ち位置にいる。というのも彼は是々非々の成熟論者であり、武道に通じ愛国者を自認しつつ韓国中国の篤志と仲が良いという立場であり、ネットの右翼や左翼にとってみれば自分たちに都合が悪い発言をされるため、彼らの敵対者への用語である「ネトウヨ」「ブサヨ」として分類されるのである。ふつう、右翼的かつ左翼的である立場というものは取りようがない(中道は中道であり、どちらでもないという分類になる)。にも拘わらず、差別用語を扱う側は、都合が悪い言説者のことを表現する際は「自身と敵対する分類」に一括りに分類してしまうために、「ネトウヨ」であり「ブサヨ」と名指される人物が成立してしまう。
たしかに、差別用語は大変数多くの分類方法がある。しかし、その用語たちはむしろ「違うもの」を適切に細分化して表すためにではなく、取り扱い容易な「同じもの」として扱うために功利的に使用される。ネット上で左翼を自認するものたちは、敵対者のことをひとまず同一の「ネトウヨ」として分類し、定型的な反論を試みる(例えば軍国主義であるとか、愛国強制であるとか)。敵対者の属性が老若男女、職業、国籍など細分化可能であっても、彼ら自身の主観による同一者への還元を一度果たした後は、そのような細分化は些事となる。どれだけ被差別者が単純な同一者として扱われることに対し、自身の多様な属性を陳述しても、当の差別者の分類は本人の気分次第となってしまう。
このように、差別という言葉はその日本語として熟語の構成(差と別)から見て、「分ける」「違う」という語義があっても、その意味するところはむしろ同一者への還元、「同じ」と見なすことであることを示せたと思う。つまり、差別という言葉自体が極めて誤解を生みやすい熟語であると言えよう。
ここで、英語で差別はどのような単語に相当するか辞書で調べると、discriminationが相当するという(weblio英和辞典より)。この語を否定の接頭語である”dis-”と”crimination”に分けてcriminationが日本語で何に相当するかというと、「告発、告訴、あるいは非難」となる。元となった方は、不正の告発や非難を意味し、そこに”dis-”が付くと”不正の告発や非難を受けるべき者の行為”という、「立場が逆」になった意味となることが分かる。つまり、英語の差別(discrimination)は必ずしも「分ける」や「違う」という意味は含まれず、日本語の差別という熟語ではそれが含まれているということである。そもそも漢字の元となった中国語での”差別”は実は英語では「difference」であり、日本語では単なる「差」でしかない(ちなみにdiscriminationに相当する中国語は歧视らしい、歧は異なるもの、视は見方であり、「偏った見方をする/偏見的扱い」という意味だそう)。他にも性差別はsexism、人種差別はracismであり、-ismという接尾語自体は「思想、主義」であってsexは「性差」raceは「人種」であるため、それぞれ「性差思想」「人種思想」と直訳できる。たしかに、この二つは代表的な差別であるが、英語では差別という行為を生み出す「思想や主義」に着目して言葉を作りだしたことが伺える。日本語に対応する言葉のうち、discrimination=差別がより実態を表しやすいために、それぞれは性差別と人種差別という言葉で翻訳されて取り扱われているだけに過ぎない。ここでも、「差別」という熟語の構成要素である「差」「別」という言葉の意味は、実は元となった言語には構成要素として前景化していない。もちろん、何らかの差を見出すという認識は、discriminationにもあるが、あくまでも不当性が概念の中心であって、差は中心ではないのである。
“真正の差別(実際に不当な取り扱い)”の意味するところは、「当然同じであるものに何らかの基準から差を見出して、異なるものとして不当に扱う」もしくは「当然異なるものであるものに何らかの基準から差のなさを見出して、同じものとして不当に扱う」のどちらかに該当すると言えよう。しかし、”差別という熟語の構成要素”から見た意味では「不当に差がある」と見なすものが差別であるとする考えに我々日本語話者は馴染んでしまっており、「不当に差がない」と見なすものを差別という考えに馴染みにくいのではなかろうか?あくまでも、重要なのは「そのような取り扱いは正当であるか?」であって、「差があるか?」ではない。そして差別を行う側は不当に「差がある」と見なしたうえで、それ以上の細分化や差を認めない「差のない、同一者への還元(被差別者の烙印)」を必ず行う点で定型的である(差別をするタイプの人間が細かく対象を細分化して、スペクトラムな取り扱いをしているような事例を私は寡聞にして知らない)。逆向きの、正当な取り扱い(冒頭で取り上げた、色覚特性を持つ人の色覚が重要な仕事への就労制限)に対して「差別である」という告発についても、「当然異なるものであるものに何らかの基準から差のなさを見出して、同じものとして扱う」ことの要請であり、これはむしろ告発者が差別を要請しているわけである。そしてこちらもやはり、「差のない、同一者への還元(色覚特性と定型発達を同じく取り扱う)」を行っている点で定型的であることが伺える。
たくさん「差別」という言葉の、本来は両価的な意味を論じたら、差別という熟語自体があんまり良くないのではないかと感じてきた。不当かどうかが重要なのであって、差があるかないかが重要なのではない。にもかかわらず私たちは差別という、ともすると差について論じたがるこの言葉を使わざるを得ないのだろうか?「不公平な取り扱い」や「不当な取り扱い」という言葉こそ類語としてあれど、わずか2語だけで表現するには、他にどのような言葉が相応しいのだろうか?誰か私たちに教えてほしい。