青戸アキ

物書き / 学生 短歌と、簡単な評論を書きます。 引用を明記しない転載は御遠慮ください。

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    思いついたように書きます。ソライロノハナのような、一握の砂のような。

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    考えついたことを書きつけるだけです。

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    大学のレポートのような、割とちゃんとまとめたもののような。

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    詩はきっと魂が漏れ出て、言葉になってしまったもの。

最近の記事

「涙」〈短歌〉

涙って不思議ですよね。 感情が動くと目から体液が出る。不思議。

    • 「レベル」〈短歌〉

      朝、起きられません。 夜は寝れません。 リセマラしようかな~~()

      • 暑さとは〈短歌〉

        暑いですね~~ この季節、食欲もやる気も減退するので 毎年何もなし得ないです。今年は少し時間とって色々してみたいなあ

        • 「君」と呼ぶ〈短歌〉

          短歌ではどうしても、好きな人を「君」って呼んでしまう。国歌みたいな事かな(?)

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        記事

          パンツ〈短歌〉

          「パンツ」 そそくさと 服を脱ぎだし 驚いて まだ穿いてても 僕はキスした 石川啄木は、『天鵞絨』の中で「そそくさ」に"匇卒"っていう字を当ててるみたいです。 啄木の小説って可愛いんだよなあ

          パンツ〈短歌〉

          きっとまだ〈短歌〉

          きっとまだ 知らない世界があることを 「ディープステート」と呼んでみたいな ディープステート、可愛い言葉だと思うなあ笑

          きっとまだ〈短歌〉

          ソウル・ミュージックの俯瞰と時代ごとの軌跡、その意義

          「ソウル・ミュージック」という言葉が意味する音楽ジャンルについて考える時、私たちはそのルーツや内実の複雑さに困惑する。成立過程や代表されるアーティストについて共通した知識を持ち得たとしても、その認識には微妙な差異が生まれざるを得ないのではないだろうか。本稿冒頭では、「ソウル・ミュージック」の辞書的な意味を紐解き、サム・クック、レイ・チャールズ、ニーナ・シモン、アレサ・フランクリンの音楽をなぞりながら、その社会的意義を考えたい。 「ソウル・ミュージック」の辞書的意味まず、平凡

          ソウル・ミュージックの俯瞰と時代ごとの軌跡、その意義

          祖母〈短歌〉

          五七五 心動かし 動かされ それをあなたが 教えてくれた 元気かな。会えてないや

          祖母〈短歌〉

          遣る瀬ない〈短歌〉

          遣る瀬ない 逃げ場などない 人の世も 君は僕など 見てないことも 全てが、僕がそう感じているという それだけのこと。

          遣る瀬ない〈短歌〉

          去り際の〈短歌〉

          去り際の 手を振る君に した顔は どんなだろうか 知りたいなんて 人に向けている自分の顔を、見ることはできない。

          去り際の〈短歌〉

          できるだけ〈短歌〉

          できるだけ 遠くがいいと 言ったのは こうして僕が 悲しくなるから? 「できるだけ遠くに行きたい」と思えるって、素敵なことですよね。

          できるだけ〈短歌〉

          夜の川、向こうとこっち〈詩〉

          夜の川、向こうとこっち 真っ暗で、何も見えない 月さえも雲に隠れて 線路には 黄色の車が ゆっくりと走ってゆく 調べようと スマホを出したら 眩しくて 思わず瞑る コンタクト 乾いてる 「保線車両」って言うらしい 手を振ってみる 気づくかな 夜の川、流れが早い 河川敷、ここまで来ても どうしてまだ 君を想うんだろうか 川に流れてしまうのに 理由なんか、別にない ただここに来ると今までも 考えてきた色んな悩み 今更になって吹き出して 止まらなくて、ただ、それだけで

          夜の川、向こうとこっち〈詩〉

          「月に吠える」二篇削除の再検討 ―事実関係の整理による読みの可変性

          はじめに 大正から昭和にかけて活躍した詩人である萩原朔太郎は、現在その処女詩集「月に吠える」が最も広く知られている。同書は大正六(一九一七)年に感情詩社と白日社の共刊で出版され、両社の主宰である室生犀星と前田夕暮が発刊に大きく関わった。序文を北原白秋が書いたことでも知られる。 「月に吠える」は北原白秋、与謝野晶子、高村光太郎といった高名な詩人が、また後の時代においても同郷の詩人や評論家をはじめ、老若男女を問わず国内外の読者が高い評価をしているものである。その熱狂的な注目は

          「月に吠える」二篇削除の再検討 ―事実関係の整理による読みの可変性

          石川啄木の、現代への警鐘

           冒頭の1歌も含め、『一握の砂』は1~151までが「我を愛する歌」という小題でまとめられている。この「我を愛する歌」の最後の2歌について、ここでは論じたいと思う。  筆者はこの2歌こそ啄木の歌の中で最も解像度の高い時代性・社会性を持った歌だと考える。冒頭の「東海の…」は、解像度よりも相対性を重視しているのに対し、この2歌は実際の人物や事件をそのまま題材としている。  1909年10月26日、伊藤博文は中国・ハルビン駅で凶弾に倒れ亡くなっている。政治家の暗殺は、ときに極めて

          石川啄木の、現代への警鐘

          クィア文学としての夏目漱石『こころ』における「明治の精神」

          はじめに 『こころ』の文学理論としての読解は、多くの先行研究が存在する。作品に研究の数だけ読解があるとするならば、『こころ』は近代日本文学の中で最も主題の多い作品の1つと言えるのではないだろうか。作品が朝日新聞上で連載されてから既に100年以上が経過している今日改めて本作品に取り組む上では、必然的に先行研究の何れかに根ざしたものにならざるをえない。本稿では、そうした数ある作品論の中でも、クィアセオリーによる読解と作品背景を中心に、作品最末に登場する「明治の精神」の概念を検証す

          クィア文学としての夏目漱石『こころ』における「明治の精神」

          よかぜ〈詩〉

          せっかく横になったのに、 眠りにつけない夜がある。 そうとわかれば戸を開けて、 サンダル履いて、散歩する。 夜の散歩。夜のおでかけ。 電車はとっくに走らない。 車はちょっと走ってる。 ちらちら光る街明かり、 川辺の虫に、月明かり。 不意にぴゅうっと音が鳴る。 風が吹いた、夜風が吹いた。 タバコの煙が巻き上がる。 思わず身体を翻し、夜風を背中に受けるのは、 夜風が嫌いだからじゃない。 夜風に揺れる足取りに、 もう迷いたく、ないだけで。

          よかぜ〈詩〉