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No.7 「次、演る時は50歳ですね」
この記事は少しネタバレを含みます。たぶん。
小林賢太郎演劇作品の『うるう』という舞台が大好きです。
再演、再再演とサンケイホールブリーゼで観劇しました。
小林賢太郎演劇作品『うるう』
2024年2月20日〜5月31日の期間限定で無料公開されています。こちらの動画の収益は、全て能登半島地震の被災地に充てられるそうです。
ざっくりとしたあらすじを一言で語るとすると……
<2月29日に生まれた主人公ヨイチに巻き起こる、悲劇と喜劇>
と言ったところでしょうか。
ヨイチは悉く、はみ出ぼっちなんです。
閏年の閏日に生誕したヨイチ。
いつもヨイチだけ足らない。
いつもヨイチだけ余る。
この世から必要とされてないんじゃないかと、ぐるぐる思考を巡らせている間に森に居場所を見つけます。悪く言えば、世間から社会から逃げてしまうんです。
そこで、1人の少年と出会い……。
そんな物語。
あ、これ、1人舞台です。
舞台の奥にチェロ奏者の徳澤青弦さんが、チェロを奏でています。
チェロをちぇろちぇろっと奏でます。
携帯で次の閏年を調べて、再再演のアンケートに書いたんです。
「次、演る時は50歳ですね」と。
まさか、これが最後の表舞台になるなんて。
そして、この公演を境に紙アンケートは消滅していきます。
なんか今思えばとても感慨深いものがあります。
再再演の公演は2020年2月27日に観ました。
(2月29日は当たり前に外れた。倍率えぐいことになったんじゃないでしょうか?)
ちょうどコロナが猛威を振るうぞ〜みたいな時期で、公演中止もありえるなぁと思っていたらこれ。
花粉症の季節ですね。観劇中にくしゃみや咳が出てしまうのはしかたのないことですが、ハンカチやタオルでふさぐなど、ほかのお客様へのご配慮をお願いいたします。そしてみなさん、感染症予防のために手を洗いましょう!
— スタジオコンテナ (@kkw_official) February 21, 2020
「うるう」横浜公演、ご来場をお待ちしております。
花粉症のことがメインなの?????
当時は、笑っちゃいました。
一応、感染症についても触れてますが、それにしてもよ!!って。
で、次の公演であったはずのカジャラ『無関心の旅人』はコロナでぶっつぶれて、賢太郎さんパフォーマー引退。
コント集団カジャラ 第五回公演『無関心の旅人』は、新型コロナウイルスの影響により、全公演中止になりました。大変申し訳ございませんが、お客様には何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。
— スタジオコンテナ (@kkw_official) April 16, 2020
チケットの払い戻しにつきましては、後日お知らせいたします。
コロナ、お前のことは本当に許さないからな。
(カジャラの台本を買い損ねたので、また再販やってくれたらいいなぁ……)
まぁ、そんなこんなで『うるう』の再々再演なんてものはないのです。本当にちょっぴり切ないでやんす……
50歳のヨイチ見届けたかったなぁ。
みんなの心の中にいると信じて、無理矢理飲み込んでおります。
『うるう』のなにがいいのかと問われると、何点かこれだ!というのがあります。
一つ、ヨイチが白髪であること。
二つ、プロジェクションマッピングをフルで活用。
三つ、闇と光のバランス。
突然の発表ですが、白髪フェチなんです。
髪が白い、ないしは銀髪が好きです。
さらに <何故ヨイチは白髪なのか?> という答え合わせをしてから、余計に癖を殴られました。
まさかの白髪がチェーホフの銃だったわけです。撃ち抜かれた。ばっきゅーん。
再再演はとても遠い席で、高い位置の客席でした。小林賢太郎の白髪後頭部をまじまじと観察してました。(きっとウィッグだと思うんですが、頭の形もしっかり確認できて)とてもよかったです。
映像だと当然バストショットもあるわけです。顔面だけとか。
んんんっ〜もぉ、いいわけです。とにかく面がいいので。
次に、舞台演出にフォーカスを当ててみます。
二つ目に挙げた理由のプロジェクションマッピング。
余すことなく広げられる、賢太郎さんの自由帳を見せつけられるんですね。
初演を見た方は、きっと思ったでしょう。
「これ、どうやって映像に残すんだ」と。
舞台装置の壁面は全て、彼のキャンバス。
ヨイチと連動する壁面は、ヨイチの心情に呼応するように没入感を誘います。
これ、本当にすごいんです。
作演出主演の全てを担う彼が描く全てが、風呂敷のようで、包まれていく。見るというより感じるに近い感覚を得ました。
これをライブで見た衝撃は、計り知れないです。
(だからこそ、もう演らないのか……というショックはでかいんですね。きっと)
賢太郎さんの絵は優しくて、朗らかで、時々鋭くて。撫でられているのか、刺されているのか、わかんない時があります。
それを遠慮なくぶつけられる衝撃ったら。はぁ……。
急に語彙が旅立ったので、三点目はサクッと終わらせたい。
最後は闇と光のバランス。
この話の核となるところは、じめぇーーーーっとずっと薄暗いんです。そこに光が差したと思えば、暗黒になる。新たな光が参入すると、じわりと融ける。闇が晴れると、あたたかさがあるんです。このあたたかさはきっと、やさしさなんじゃないかと僕は推察します。
人間誰しも黒歴史あると思っているんですが、ヨイチの場合拗らせているというか、それだけの時間と空間があるなら、誰でもぐちゃぐちゃになっちゃうと思うんです。
いつも自分だけ余っていて、いつも自分だけ取り残されて。
普通に過ごしたいだけなのに。
普通でありたいだけなのに。
は?そもそも普通ってなんだよ。
うああああ〜〜
そんなの地獄以外にどう表現すればいいのでしょう。
そして、ヨイチにはただならぬ事情が存在します。その事情がヨイチをここまで拗らせることになるトリガーになるなんて、きっとヨイチの両親も思っていなかったことでしょう。
世のため、人類の未来のため。
ある意味、そんな大儀に呑み込まれたのがヨイチです。
賢太郎さんの書く話には、<自分がここにいる意味を探る> 人物がよく登場する気がします。
ラーメンズのコントにしろ、演劇作品にしろ。
「そういえば、君もなんだね」となる程に。
悩みの行く果ての核に <今、自分は、存在してていいのか?> があって、一歩でも間違えれば儚くも消えゆく存在です。
これって、自己肯定の揺らぎなんじゃないでしょうか?
「別にいいじゃん。他の人とちょっと違っていても」「だって、自分はこういう奴なんだもん」「だから、生きてていいんだ」
そんな感情を抱くためのスモールステップを、我々は賢太郎さんに見せてもらっている。そんな気がするんです。
『うるう』ここがすごいんだぜポイントは、いくらでもあるんです。
影絵とか、舞台装置とか、演出的なテクニカルな部分とか。
そもそも、1人舞台なのにもう1人存在する表現の逞しさったら。かわいくて、ちょっとだけヤンチャで、人懐っこくて。見えないけど、その子の表情まで感じ取れちゃうなんて、凄すぎますぜぇ……。
たらたらと語ったんで、最後にポツネンでやってた『うるうびと』について少しだけ喋りたいです。
Potsunen『THE SPOT』
「うるうびと」
(この記事を書いていた時は、動画が単発で存在していたんです……記念(?)においときます。多分消えちゃってるんですけど……)
「うるうびと」はChapter8にてご覧になれます!!
恐らく、『うるう』の原型はここにあるんじゃなかろうかと。
(賢太郎さん本人が、るうる日になった瞬間に、うるうの制作過程を載せるなんて思わないじゃないですかぁ……以下、僕の見解だったものです。)
この人物もヨイチと同様に2月29日生まれで、自分が余り物だとか除け者だとかを感じている。
なんで自分ばっかりこうなんだ……ならそうか誰かを消せばいいんだ。だったら自分は余らなくなる。
こっっっっわ。
(賢太郎さん、こういうサイコパス的怖さ本当に大好きですよね。僕も好き)
(プレゼント交換してるのに、なんで貰えなかったのかは本当に謎っす)
でも、実際問題あると思うんです。
はみ出す瞬間って。
例えば、友達のグループが奇数だった時。
2人乗りのジェットコースターは、だいたい1人だけシングル乗車です。
例えば、学校で「誰でもいいから2人ペアになれ」ってやつ。
とっても嫌な言葉です。指定してくれたらいいのに。クラスでバディを組めそうな関係性じゃないと、なかなか厳しいですよね。隣のクラスだったらいるけどなぁとか。そもそも学校にそんな奴いない、とか。
こどもたちの社会にも奇数グループが故の衝突もあったりして、ままあると思うんです。こういったシチュエーションって。
1人にされてしまった孤独が続くと、ヨイチみたいに安全基地に逃げ込んだり、うるうびとみたいに危険な発想に至ったりする訳です。
社会に存在する自分って、やっぱり必要なんですね。
生きてていいんだと思えるためには、周りの繋がりが重要ということが『うるう』や『うるうびと』から見え隠れする気がしてならないです。
あっという間に3000字を越えたので、ここで終わりにしようかと思います。
またいつか、ヨイチの愛おしポイントについて語りたい。
愛すべき閏年生まれに乾杯!!