自分の人生の「主体」は、自分であるということ
前回、こんな記事を書きました。
思うところがあり、もう少し書いてみたいと思います。
何かあるかもしれない
私は21歳のときに、元夫と東京で知り合いました。
25歳で結婚し、元夫の「地元に帰りたい」という希望で、
結婚後しばらくして、名古屋へ引っ越しました。
義両親との「同居前提」で話が進んでいましたが、
別れる覚悟で阻止しました。
それは本当に、不幸中の幸いでした。
東京に住んでいた頃、夜中に、
義父から元夫に、「今すぐ帰ってこい」と、
電話がかかってきたことがありました。
「離れて住んでいるのに、そんなに怒ることって何があるの?」
新幹線はもう終わっている時間で、
タクシーで行きかねないほど狼狽した元夫に、
「酔ってくだを巻いているだけなのに、なぜそんなに?」
元夫は「母(義母)に何かあるかもしれない。」
と。
名古屋に移り住んでからも、
何かと実家に呼びつけられました。
用事もないのに、頻繁に行かざるを得ないことが、
不思議でたまりませんでした。
元夫は、
「(義父の)機嫌を損ねると、母(義母)に危害が及ぶから」
と。
家族という病
実際、義母が青あざを作っていたことがありました。
そこまでいかなくても、飲んで何かの拍子に怒り出し、
4~5時間もねちねちと説教が続くことは、
一度や二度ではありませんでした。
私も元夫も、義母に離婚を勧めました。
私たちは賃貸に住んでいたので、「ここに来てもいいよ」と。
しかし、決して離婚しようとはしませんでした。
元夫の家族は、義父母と、元夫と義妹の4人でした。
大して仕事をしておらず、
飲んで暴れ、出禁になった店も多かった義父は、
近所で出かけられる先もほとんどなかったと思います。
義父が何とか自分のプライドを守るために、
「従わせる」相手は、家族しかいませんでした。
元夫はすでに実家を離れ、
私たちが結婚した当初は実家に住んでいた義妹も、
しばらくして、結婚し家を出ました。
子どもたちはもう家を出ているのに、
義父はしきりに呼びつけました。
家族という「自分のプライドを保つ道具」を、
手放さないために。
家族を守りたかった?
今でも繰り返し思うのです。
なぜ義母は、「あんな義父」と離婚しなかったのでしょう。
義母は会社員で、義父は名ばかりの自営業。
家計の主だったところは、義母の収入だったにも関わらず。
義母は、元夫と義妹という「子どもたち」を、
守りたかったのでしょうか?
しかし、元夫が「仲のいい家族」を演じていたのは、
「義母のため」でした。
義母は、義父に人質に取られているようなものでした。
また、元夫は完全な「アダルトチルドレン」でした。
表面を取り繕う、内面は極度の依存体質。
家庭環境が、彼の人格と人生に大きく影響したのは、
間違いがないでしょう。
良いところもあるのよ
義母はどんな気持ちで日々を過ごしていたのでしょう。
葛藤がなかったはずはありません。
離婚しない理由を、義母に何度か尋ねたことがありました。
「普段は問題ないのよ。」
しかし、いつスイッチが入るかわからない日々は、
本来の「普段」とは違うはずです。
また、こうも言っていました。
「良いところもあるのよ。」
当時は言葉すら存在しなかった「DV」。
繰り返す人の特徴が広く知られる今では、
「みんなそう」と知っています。
家族という「よりどころ」を手放したくなかったのでしょうか。
実際は、ともすると自分が攻撃される場所。
「世間体」もあったのかもしれません。
義母の職場は自宅からすぐだったし、
ご近所の目もあったでしょう。
問題をやり過ごし、何もしない言い訳は、
いくらでも上げられます。
実際は、
「変える勇気」が無いだけだったのかもしれません。
スイッチが入ったときだけ「我慢」すれば良いのだから。
いつだって人は、「慣れ」た状態が楽です。
戦うべきは「今のままでいたい」という、
自らのバイアスなのかもしれませんね。
自分の人生の「主体」は自分であるということ
周りを見ても、子供が巣立って離婚する夫婦は多いです。
「人間的に付き合う」のが難しい人と二人、
30年も40年も暮らすのは、キツイですよね。
義母は、あと40年くらいあったかもしれない人生を、
どう考えていたのでしょうね。
今でも、あんなに良い人が、
なぜ「あんな人生」だったんだろうと思います。
しかし、同情はしません。
結局は、選んでいる。
「変えず」に、そこにいることを「選んでいる」。
人生の「主体」は自分で、
「何とかする」のは自分です。
自分の人生で、「被害者」を生きてはいけないのです。
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