「人生」という概念は日伊で違う。だから学校の構造も異なる。
ファビオ・ランベッリ「イタリア的考え方ー日本人のためのイタリア入門」
第3章 「極楽」イタリアの日常生活
イタリア人の日常生活は、イタリア人全体に影響する現代イタリアの諸制度、国家機関、規則、通過儀礼などの意味合いの分析から理解できる。教育制度、徴兵、仕事、年金制度など、これらによって一般化の罠から解放できる。
小学校から大学に至るまで、殆どが国立である。保育園や幼稚園は市立や私立だが、小学校からは国立が主流なのだ。入学試験もあるが(1997年の本書発刊時は少なかった)、より重要なのは卒業試験である。入学前の人は白紙であるから多くを受け入れ、学問の吸収能力は各自の意思によるから、卒業時に判断される。これはカトリックの救済論の構造を反映している(原罪→ッ神の恩寵→善悪の行為は自由意志→最後の審判)。
この構造のおかげで、高校や大学の変更が比較的容易にできる。人は変わることを前提にしているのである。欠点は不確定性が強く混乱を招きやすいことだが、知的成長、批判的精神、考え方や行動の自律性の育成に貢献する。
これも第二次大戦後に大きく変化した結果だ。戦前・戦中までは教育は批判力を生み出すから大衆への教育を恐れ、戦後は批判力を育むために大衆教育が重要との理念に転換したのだ。したがって、今日のイタリアの教育目的は、知識・情報の伝達よりも、それぞれの個々の考え方を伸ばすことである。
授業時間の設定にも、この趣旨は適用されている。授業は朝8時から午後1時半頃までに終わることが多い。子どもの生活すべてを支配することを避ける制度である(息子の学校の経験では、小学校→中学→高校と進むにつれて、家に早く帰ってきた!)。自由時間が子どもの生活や学びにとって有効であるとの考えがあるからだ。
「学校は人生を教えてくれる」と言われるが、(例えば日伊の)人生の概念の違いが、学校の構造の差をつくっているのは、上記の例をみても分かるだろう。
尚、教える科目は教育省によって定められるが、その内容は教師によって自由に教科書を選択できる。また行政による教科書検定とのシステムもない。そして中学と高校の卒業時は、国家レベルの試験に合格しないといけない。また、大学の試験は、同じ科目を何度でもパスするまえで挑戦できるようになっている。
一方、仕事について。イタリアの労働法は欧州で先端と言われるが、その権利のひとつが「自由時間」である。残業の扱いなどで労組と厳しい闘争があったのはそのひとつの証である。それによって、一時は生産性の低下が危ぶまれたが、時代が巡り、現在、「自由時間」の確保は経営上の重要なテーマになっている。
<分かったこと>
ミラノで生まれた子どもを育ててきた経験からすると、この教育に関する説明はとても合点がいく。表面上、さまざまな学校運営の問題をみてきたが、少なくても息子が受けてきた教育は、ランベッリの記述の通りである。1人で考える術を身に着けることを徹底している。
小学校から通信簿は筆記試験と口頭試問が50%づつの評価、中学の卒業試験はすべての科目の内容に触れることを前提にして、あるテーマについてレポートと20-30分のプレゼンがある。それを先生たちのみならず、生徒も出席して、評価が行われる。高校において美術史が数年にわたり科目としてあり、哲学史も毎週何時間かの授業が5年間行われる。どれも科学系の高校のカリキュラムだ。
何もないところで、何を考えるべきかを鍛えられるのである。そして、それを人に対して主張し、相手が納得するような工夫が要求される。理想的な平和な学校生活があるわけではない。日常、問題点はたくさんある。が、結果としてみた場合、サバイバルできる大人になれる。
尚、日本語では「人生」と「日常生活」が概念として分断されていることにより、不都合が生じていることを以下、サンケイビズのコラムで書いた。
写真©Ken Anzai