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アリストテレスは、本当に痛いところをついてくる。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第5巻 正義と不正

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

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(正義と不正を論じているが、不正に焦点をあてたまとめをしたい)

正しいことには、名誉や財貨、その他の国制を共有する人々に分け与えられる「配分」、つまり「等しい」「等しくない」との種類の他に、「是正的なもの」に分かれる。

是正的なものには2つあるが、それは取引には、自発的なもの(販売、購入、貸与など)と非自発的なもの(窃盗など密に行われるか、暴行のような暴力)があるからだ。

配分における正しさは、比の等しさであり、比例関係に基づき、不正なことは、比例関係に反するものだ。是正とは、例えば、等しさをかいた事態(=不正)を裁判官がこれを「公平にする」ようにつとめることを指す。「利得」(例えば、殴ったもの)と「損失」(例えば、殴られたもの)の間で中間を狙うのだ。

正しい行為をすることとは、不正を行為することと、不正な行為を身に受けることとの中間にある。

「社会的な正しさ」には、自然的なものと法的なものがある。前者は、人の考えとは関係なく、あらゆるところで同じ力をもち、後者は、ひとたびある考えが定められると、その他の考えとの間に力の差異がでてくるものだ。

正しいこと、不正なことは、自発的に行われる場合と非自発的に行われる場合がある。自発的な、非自発的かによって、不正行為や正しい行為によって内容を限定される。

自発的とは無知な状態ではないところで行うことだ。自分自身の力の範囲内にあるもので、相手、手段、結果について知りながらの行為だ。誰を何のために殴るか、を知っている。他方、無知の状態、自分自身の力の範囲外の行為(強制される)のが非自発的である。

加害には3種類ある。一つ目が「過失」で、もっぱら無知によって自分の思いもよらぬ事態を招く。2つ目は「不条理な仕方で」の加害。原因の始点が自分の外にある。

3つ目は「不正行為」。行為者が行為の是非を知っていながら、情念などによって引き起こされる、あらかじめ熟慮せずになされた加害である。しかし、不正な人でも、劣悪な人でもない。激情にかられる人よりも、その人を怒らせた人に始点があるからだ。

だが、行為が選択に基づく場合にあって、その行為者は、不正な人であり、邪悪な人となる。比例関係に反していたり、等しさに反していることを選択によって行った場合、「不正な人」である。

ここで、一つの問いがある。自分で自分自身に不正な行為をすることがありうるか? さらにいうと、行為を身に受ける相手、その手段、その方法を知りながら、相手の願望に反して害することがありうるか?

<考えたこと>

ぼくは法律の世界についてまったくの素人だが、この巻を読み、いくつかのエピソードを思い出しながら、次のことを考えた。

日本のなかにおける犯罪で悪質と見なされるのは、「故意」に加え、その故意が組織的に仕組まれているかどうか、当然、その「頭」の罪が重い。昔、このことを知ったとき、表面上、分かった気になっていた。

そして、イタリアにおいて、同様に組織的に行われた犯罪に対する処置は重いと知ったとき、組織犯罪への考え方が多角的に理解できたと思った。

だが、さらにその後、この問題の深さをよく知るようになる。違法薬物取引、高齢者相手の詐欺商法という問題について頻繁に見聞してきたからだ。

これをどういう枠組みで捉えると良いのか考えてきたが、これも組織犯罪が個人と社会にとって最悪であるとの前提をおくようになった。そもそも、故意でなければ、組織的な動きが成立しないのだ。

さて、若者の自傷行為は組織犯罪ではないが、「個人の問題でしょう」とは言えない背景がある。あるいは、薬物やアルコール依存症といった病気の所在についても、同様である。

とすると、組織犯罪と個人の無知の間にある闇に光をあてるのがよいのだろうか?

写真©Ken Anzai




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