16世紀のマルセイユで市民資格を得るには「10年間に渡って居住し、不動産を所有し、土地の娘と結婚する」必要があった。
ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』第8章 都市 西ヨーロッパ諸都市の独自性
ヨーロッパのアイデンティティは、絶えず他の諸大陸との関わりあいのなかで説明されてきた。都市についていえば、比類のない自由で自律的な世界として発達した。領域国家の先をいくものだった。
そして農村は都市の植民地だった。
ローマ帝国の終焉で都市の枠組みが失われたが、11世紀以降に都市の再生が急速に進む。それは畑・果樹園などの多様な伸長と共に農村の活力が増したからだった。農村の再編成が新しい都市を生み、そこに領主、世俗的君主、高位聖職者など政治的・社会的権威が入り込んだ。並行して貨幣経済への全面的復帰が都市化を後押しした。
その結果、何千と都市が生まれたが、傑出した都市はロワール川とライン川のあいだ、イタリア北部および中部、地中海沿岸のいくつかに限定される。基本的には商業的繁栄を謳歌する場であったが、「都市国家」として政治的空間を展開したところもある。
いずれにせよ、西ヨーロッパに限らず、「国家」と「都市」の2者が競い合うシーンが繰り広げられ、ヨーロッパにおいてはイタリア、フランドル、ドイツにおいて都市が輝きをもった。
都市は共同体であるが、近代的意味での社会でもある。数多な緊張と戦いの場でもあったのだ。しかし、それは内部の話で、都市の外に対しては共同戦線を張っていた。そこには新しい心性があり、初期資本主義とも言うべき、富むため、生きていくための技術があり、リスクを負う賭けもあった。言ってみれば、支出にあわせて収入を考慮する世界観が中心にある。
都市には内部の完全市民と外部の部分的市民の区別される住人がいた。完全市民になるには時間と金が必要だった。16世紀のマルセイユで市民資格を得るには「10年間に渡って居住し、不動産を所有し、土地の娘と結婚する」必要があった。
よって、産業、工芸、それに伴う特権と利益の所有が問われた。紡績・織物・染色の権利が都市、都市周辺、農村のどこにあるのが有利かを都市の商人が決めていったのだった。18世紀のロンドンにおいて、都市内と郊外の同業者組合の線引きが上手くいったのが郊外の発達に繋がった。
ヨーロッパを離れると、アメリカ大陸において商業都市はなく中世的であった。また、ロシアにおいてモスクワ大公国の諸都市は農民に左右されていた。16世紀から19世紀にかけ、東ヨーロッパ諸国におけるヘクタールあたりの収穫量は平均して変化がみられず、一定して低水準だったのだ。
つまり繰り返すが、農村が逞しく余剰を生まないうちは、都市は裕福になれなかったのである。
<わかったこと>
政治的権威、経済的権力、これらは農村の「余裕」によって都市内で「表現」されていた。農村が自らの運命を決定する力を奪われた都市の植民地だったといえ、それを都市が当たり前に享受していたわけでもなく、それなりの試行錯誤のなかで着地点を都市の企業家が中心になって決めていた。
とすると、現代、事業家がそのローカルの運営の一端を担う(例えば、ソロメオにおけるブルネッロ・クチネッリ)のは、都市国家的ロジックの延長線上にあると考えられるのか?