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知恵を絞って難局を突破するクリエイティブな力の背後にある楽観主義

読書会ノート

ファビオ・ランベッリ『イタリア的 「南」の魅力』の第二章イタリア人の宗教観ー「常識」としてのカトリック をまとめる。

国家祝日の編成から、現代国家としてのイタリアがみえる。年間11日の祝日のうち、4月25日(イタリア開放記念日)、5月1日(労働の日)の2日を除けば、残りは宗教的な祝日である。これは政教分離が完全ではないと解釈すべきではなく、国家が宗教的な祝日が表象する伝統文化の重要性を考慮していると解するのが適当だ。

というのは、キリスト教としての意味合いと、農業関係やユダヤ教、古代ローマ、ケルトなどの民族の祝祭が重なっている(ex.復活祭:ヘブライ人がエジプトの奴隷制からの解放、及び春の到来を祝う)。8月15日、Ferragosto(聖母マリアの昇天)は古代ローマのアウグストゥス帝の誕生日、農閑期、この2つの兼ね合わせである。

11月1日の「聖者の日」は聖者を祝う。翌日は祝日ではないが「死者の日」である。いわば墓参りの日だ。秋の農作業が終わり収穫・神・聖者に感謝し、死者とのコミュニケーションで共同体が再統合される。ケルト人の暦の大晦日であるHallow's Eve「聖なる前夜」の翌日、1日ずらした11月1日をカトリック教会は「聖者の日」とし、先祖を忘れられないので2日を「死者の日」としたのだ。

民族学者のE・デ・マルティーノが指摘したように「キリスト教は一方で古代の文化システムを破壊し、生き残ったいくつかの要素をカトリックの教義や典礼という新しいシステムに習合しようとしてきた」のである。このように労働とともに休むことも重要である、との考え方がイタリアには通底している。

カトリックが倫理に与えている影響では、本来不確実な「救済」を保証されるためには、個人的に、他人も巻き込んでいろいろと工夫しなければいけない。さすればなんとかなるだろうとの楽観も、カトリックに起因するとの説明が可能だ。聖者が、ここで活きる。

神(唯一神としての絶対者であり、あらゆるものごとの最終的根拠)ーキリスト(人間と神、超越と内在、霊と身体などの境界的存在としての媒介者)ー聖母マリア(人類のなかで唯一、原罪のない存在)ー聖者(人間で、人への救済活動として奇跡を行ったとされる)といった関係があり、神に直接懇願するよりも、聖者のような神との仲介者を頼った方が効果的であると思うのである。

これは聖書に基づかない。外来宗教としてのキリスト教が、ローマ帝国の版図であった地域に定着するにつれて中世前期におきた、宗教習合の思想によって生じた現象だ。

社会思想的な観点からすれば、カトリックにおける絶対神のもとでは皆が平等で、神が自由意志を認めるのは、民主主義や自由主義につながり、社会改革の思想的基盤にもなる。

<分かったこと>

イタリアで戦後、中小企業の数が増えたのは政府の「家族的小企業は人間的で労働者の尊厳が保護される」との政策に影響をうけた部分が強いことは、ぼくの本『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』で触れた。これはカトリックの教えに基づいていたとされる。しかし、救済や聖者への考え方については触れなかった。またクリエイティブであることが、言ってみれば、聖者を仲介者にした先で「なんとかなるだろう」との楽観的な人生観との関係で語るのは、とてもよく分かる。人的ネットワークへの依存の仕方としても納得がいく。ただ、この説明を多用し過ぎないのも肝心かと思う。

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