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嵐を抜ける
薪を焚べる
最近は毎日驚くほどに忙しい。深夜に会社を出ることも増えた。夜の神保町を歩いて、ふと、街に雪が積もっていないことに気付く。冬だというのに、ピカピカの晴天が続く東京の気候に慣れない。週間予報のうち5日は雪マークがつく街に住んでいた方が、この国では特殊だと分かってはいるのだけれど。
就職を機に、札幌から東京に戻って約2年、体調をある程度のペースで崩しながらもなんとか生活を続けている。割と不満のない職に就き、割と不満のない給与をもらい、割と不満のない家で過ごしていても、相変わらず体調には少し波がある。いまはその波の極小値から数日後である。手元がおぼつかないので、この数行を打つだけでも打鍵ミスを繰り返している。そんな状態でも、文章を書きたくなる日はたまにある。
大学生活を終えて東京に戻ってからは、作家が膨大な時間をかけて作った物語を一冊の本にまとめる仕事をしている。中高時代を過ごした東京から離れた2019年、あの頃は微塵も考えていなかった職業に就いているのが、自分でも不思議だ。大学受験時は東京から脱出すること以外何も考えていなかったのに、結局東京に戻ってきてしまった。
出版社に入社してからは、エンタメ小説だったり、純文学だったり、エッセイだったり、詩歌だったりと様々なかたちの物語を、大体1〜2ヶ月に1冊のペースで本にし続け、入社2年目の今年度は9冊を世に出した。来年度は大体月1で担当するので、多分11冊くらい。
本の中でも、私が作っている分野は割とニッチなので、正直あんまり大きな部数は出ない。おそらく、いや、間違いなく会社に貢献は出来ていなくて、人件費のことを考えるとボランティア事業のようなものだ。ニッチな分野の中では、真っ直ぐなエンタメ作品が比較的売れる傾向にはあるのだけれど、そういう作品を書きたいと思う書き手自体が減っていることに、斜陽産業らしさを感じている。それでも、この仕事は好きなので、まったく異なる部署に異動になるか、あまりにも耐えられない人間関係の問題が発生しない限り、きっと居続けるのだろう。
昨年に担当した小説はすべて、SNS上の「#2024年の本ベスト約10冊」というタグで取り上げられていて嬉しかった。毎日何冊も小説が刊行される現代、誰かのベスト10に入るのはきっと簡単なことじゃない。来年以降もこれが続くくらいに、好きだと自信を持って言える物語を届けていきたい。
だが、自分一人のマンパワーではどうにもならなかったなぁと思うことも多かった。担当作すべてに重版をかけたかったけれど、それはできなかった。自信を持って出した担当作が、ポテンシャルを発揮しないまま埋もれていくのを何度も見た。SNSでは沢山の感想が上がっているのに、2024年のトップ10にあげている人がこんなにいるのに、重版はかからないのが悲しかった。小説を売る難しさを、痛感させられた。
来年度は、自分一人のマンパワーに頼らず、会社全体に協力を仰ぎながら良い作品をしっかり売ることを一つの目標にしたい。残念ながら私が勤めている会社は、たとえ良い作品であっても、過去の実績的に売れる見込みの少ない作家に賭けることをあまりしない。それでも、これは素晴らしい作品であると前に打ち出したい。小説の火を絶やさないために焚べる、薪のような物語を、いまも編んでいる。
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わたしを探す
入社1年目の時に比べれば流石に仕事にも慣れた。今思えば、2023年後半〜24年前半は、土日に泥のように眠ることで何とか英気を回復していたような状況だった。精神的にも安定した状態とは言い難い時期もあり、不慣れなことを毎日続けるという行為がどれだけストレスフルか、嫌でも分からされた時期だった。部署に後輩が来る可能性は限りなくゼロに近いが、もし来たら丁寧に教えてあげたいと思うくらい、配属直後の自分は未知の事象が続くことに不安を募らせていた。
最近は仕事を楽しめるようにもなって、割と外にも出るようになった。といっても、一人で外に出てすることと言えば、近くのカフェで小説を読むか、映画館に行って微妙にメジャーから外れた邦画を見るか、都内の美術館で近現代美術の作品を見るか、車を走らせるか列車に乗るかして少し遠出するくらいだ。相変わらず、アクティビティを楽しむような活動的なことはあまり得意じゃない。
という感じで、外向か内向かの2択を取ったときに明らかに内向である自分だが、少しずつ属するコミュニティが増えているような気がする。中学の同期、高校の同期、大学の同期、就活時に出会った人たち、出版業界の人たち……。ありがたいことに、一度仲良くなった人とは、時々会わない時期を挟みながらも長く関係が続く傾向にある。おかげで、10程度の完全に分離したコミュニティに自分は属している。
でも、これは自分が外向的になったというわけではなくて、内向的に話せる場を幾つか必要としていると考えた方が近い。
何度か会話を交わすと、徐々にコミュニティAではaとbを話してcを話していない、コミュニティBではaとcを話してbを話していないという風に、それぞれのコミュニティに対してだけの自分が立ち上がる。
そうして、核は同じでも微妙に異なる人格が増えていく。高校の同期と話す自分と、大学の同期と話す自分は、割と違う。大学の同期と話す自分と、出版業界で仲の良い人と話す自分も、割と違う。それぞれの閉鎖された、つまり内向的なコミュニティでしか出てこない自分というのがいる。
コミュニティAの自分を知っている人と、コミュニティBの自分を知っている人が出会うと、それぞれに知られたくない自分が伝わる可能性がある。それを何となく避けたくて、友人関係はハッキリと分離している。
その結果か、誰かと予定を立てて会う回数が、高校生の時の自分に比べて明らかに増えた。でも、仲良い人と会うことは楽しい一方で、エネルギーの消耗を促すことでもあるので、このバランスを適度に保つのが難しい。このバランス感覚を鍛えるのが、今年のひとつの目標になる気がしている。
今書いているこの文章は、全員に共通して話せる部分をどうにか取り出して、それらしく紡いでいるにすぎない。いずれ、過度な分人化をし続けることに疲弊してしまうだろう。少なくとも誰か一人、AからZまでを、実際に話すかどうかはさておき、すべて話せる人がいたほうが良いのだろうな。そう、何年間も思い続けている。
こういう性格なのに、なぜ編集者という仕事を選んでしまったのだろう? と思うことがたまにある。編集は比較的ワークとライフの境界線が曖昧な仕事なので、場合によってはプライベートな話を求められる。時には、それが話したくないことであったりもする。
大概「それは秘密ですね」と、平然とした顔で言ってやり過ごすのだが、その一言で話を断ち切ったことで、作品を良くするための過程を潰してしまったのではないかと考える。
その考えから抜け出せないまま、30歳になり、40歳になる。いずれ編集という仕事から離れるとき、自分は今の内向的な性格を変えているのだろうか。今と変わらずに関わり続けている人はいるのだろうか。あまりにも予想のつかない、遠い未来のことを考え続ける。
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風を聞く
年明けから、旅行だったり出張だったりで、割と全国各地に行っている。
1月は山口と広島へ向かった。久しぶりに車を運転したけれど、やはり運転は爽快で楽しい。東京に戻ってから、予想していた以上に運転をする機会はなくなってしまった。ごくたまに運転をすることもあるけれど、爽快感を得られるような道は残念ながら存在しない。その点、適度な田舎の道はストレスフリーだ。
宇部から、下関市の川棚に向けて車を走らせる。海辺には、ダクトが複雑に入り組む工場が建ち並ぶ。整備されたバイパスをそれなりのスピードで走り抜け、徐々に海から距離を取る。
そのうちバイパスの終点がやってきて、地方都市を結ぶ県道に入る。前に訪れた時も思ったのだが、なぜか山口県内の道路はガードレールが黄色い。そのせいか、午前中に運転をしてもどこか午後のような気がするというか、全体的に暖かいような感覚がある。そのうち、川棚温泉の小さな町が見えてくる。
翌朝、宿から日本海側特有の紺碧の海を眺める。海の先に、孤留島(コルトー)と呼ばれる無人島が浮かぶ。わずかに雲が浮かぶ空に、朝日が佇む。言葉にしきれない風景を目の当たりにした時が、ここまで来てよかったと思う一番の瞬間かもしれない。
数日間、予想以上の寒さに凍えたりしながら、それなりの距離を移動した。当たり前だけれど、「県」という括りは人為的なものであって、同じ県内で数十キロ移動しただけで、広がる世界の様相は大きく変わる。それを感じ取れなくなった時、自分の感覚は信用に値しなくなるのだと、自分に言い聞かせている。
2月初頭は、蒲郡の西浦で一泊した。
なぜか新横浜〜名古屋間で豊橋にだけ停まる、ほぼのぞみといって差し支えないひかりに乗って豊橋へと向かう。豊橋から東海道線に乗り換え、大学同期が通っていた高校の最寄り駅が想像以上に何も無いところにあることを確認しながら、蒲郡で降りた。
そこから更に、廃線寸前と目される名鉄蒲郡線に乗り換える。大手の私鉄としては今時珍しく交通系ICは利用不可、列車は30分に1本で、2両編成のワンマンカー。半分以上の座席は空席だ。こう書くと確かに廃線に近いように思えるが、北海道ではタクシーでも足りる人数しか乗っていない列車に時々乗ったので、30人程度乗っていても廃線間近とはなかなか厳しい。
西浦駅から送迎バスに乗り換えて辿り着いた温泉郷は、想像以上に海際ギリギリにあって、強い海風を受けて一日中窓が揺れていた。その軋む音を聞きながら、海上にずっと佇むイカ漁船らしき船の強い灯りをぼーっと眺める。
夜になってもあまり眠れなくて、結局1時間半程度の仮眠を取って大浴場へ向かう。露天風呂に浸かろうとしたら、昨日から続く強風で扉が締め切られていた。雲を吹き飛ばす勢いの風で、海は朝焼けで輝いていたけれど、窓越しにしか目にすることはできない。長居することもなく、すぐに風呂から上がる。
強風の中、ロビーを出て少しだけ外を歩く。旅館は急坂を登った先の頂上に立っていて、海辺までは距離がある。砂浜まで降りることは諦めて、海の見える遊歩道まで足を運ぶ。
もちろん、誰もいない。こういう、東京では探すのも難しい静かな場所が好きだ。幾つもの会話が同時に聞こえる環境から離れて、海風の音だけを聞いていると、確かにここに生きているんだなと感じる。
2月半ば、次々と降りかかる仕事から逃げるように衝動的に車を借りた。
山口と打って変わって、首都高の運転はわずかな緊張感が走る。用賀ICから高速に入り、大橋JCTで中央環状線へ。限られた敷地に螺旋構造を無理矢理収めたJCTで、右に急回転をしながら、途中で増える左レーンに車線変更をさせられる。
大井、有明、晴海、辰巳、葛西と立て続けにやってくる5つのJCTを通過し、千葉県に入ってすぐ右手に見えるディズニーランドに……一人で行くわけもなく、横を通りすぎる。しばらく海岸沿いを走り続けて、稲毛の手前で内陸へ。宮野木JCTで東関東自動車道に入り、千葉市の外れにある貝塚ICで降りる。そこから下道で約20分、目的地のDIC川村記念美術館に辿り着いた。
DIC川村記念美術館は、3月末で閉館が決まっている美術館だ。館名についているDICは大日本インキ化学工業(Dainihon Ink Chemistry)の略で、私の仕事柄いつもお世話になっている会社である。
レンブラントの『広つば帽を被った男』や、ロスコの絵画作品7点を収蔵していることで有名な美術館だが、それ以外にも20世紀以降の西洋美術作品を広く集めている。私が一番好きなのもこのあたりの時代なので、中高時代に何度か足を運んだことがある。
改めて訪れると、建築意匠の美しさに驚く。吹き抜けの洋風なエントランスロビーから、暗がりの廊下を抜けて第一展示室へと導かれる。アーチ状の天井に抱かれた空間は広々としていて、開放感がある。
『広つば帽を被った男』のためだけに作られた小さな展示室を抜けると、窓と作品が一対一で対応した部屋に通される。一つ一つの部屋が別の雰囲気をまとっているのに、最後まで展示を見終えると、不思議とまとまっている。
展示の最後に書いてあった言葉がスッと胸に染み込むものだったのだけれど、あれはいずれ公開されるのだろうか。美術館を運営することに対しての矜持が見えて、読んでいて真っ直ぐな意志を感じた。
それにしても、好きな美術館が閉館してしまうのは淋しいことだ。佐倉から去った時に感じたその淋しさすら、いずれ忘れてしまう時が来る。ふと思い出すときが来たとして、それは間違いなく佐倉から去ったときから改変されている。それを何となく避けたくて、時々文章を書き溜める。昔はあんなに嫌っていた記録という行為の大切さに、今更気づきつつある。
帰りは、辰巳JCTから箱崎線に入るルートをナビに案内された。箱崎JCTから江戸橋、神田橋、竹橋、三宅坂と首都高の中でも特に気の休まらないルートを運転させられた。しばらく自分が首都高を走ることはない。
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物語と話す
2025年に刊行する予定の担当作から、この駄文をここまで読んでくれたあなたに読んでほしいと思っている小説を紹介させてほしい。一応、このアカウントは会社とは関係の無いプライベートなものとしてやっているので、タイトルや作家名は伏せて、こういう小説だよということだけに絞って述べる。どれも、私のXをフォローしていれば、そのうちどの作品のことを指していたのか分かると思うので、興味のある方はそちらで。
6月末に刊行となる、恋愛小説を編集している。私が恋愛小説の編集をするのは、これが初めてになる。そして、これからも恋愛小説を編集することはあんまり無いと思う。他人の恋愛に対して深く知ろうとしない人生を送ってきた以上、あまり恋愛小説を編集する適性が無いと考えているからだ。
というのも、基本的に大人数で話すのが不得意だし、二人で話す時は自分と相手だけで共有できる事項を話したい。そうなると必然的に、恋愛の話も含めて、第三者の噂話みたいなもので上手く盛り上がれなくなる。それは、私とあなたの二人でなくとも、第三者のことを知っている人であれば誰ともできる事象だから。
恋愛小説自体、ちゃんと読んできたとは言えない。おそらく、自分は小説に「殺人事件」であるとか「上位存在」であるとか、何らかのフィクショナルな状況を求めている。そうした小説とは真逆、最も普遍的な体験としてほとんどの人が持っている「恋愛」を物語として描くことに、あまり惹かれないのだと思う。
(念の為に補足すると、ここでいう普遍的な体験は、「恋愛が分からないなども含めて、日常生活で恋愛についての会話や思考をしたことがある」ということだ。殺人事件と何らかの関わりを持つことは普通無いと思うので、そういう点でフィクショナルである)
そんな自分が、この小説には惚れた。
元々、今作は純文学系の雑誌に掲載されたきり、本になる予定は無かった。私自身、去年の秋になんとなく時間が余ったから、たまたま読んだだけだった。読み始めると、一つ一つの丁寧な描写と同時に、全てを描ききらない絶妙な距離感に惹かれた。
数少ない好きな恋愛小説に、窪美澄の『よるのふくらみ』と、島本理生の「氷の夜に」(『あなたの愛人の名前は』に収録)があるのだが、それに似たような雰囲気を読み取った。
こう書いていると、自分はメリーバッドエンドな作品を好むことがよく分かる。恋愛に限らず、人生の中の1項目が上手く行かなくても、人生全体は案外変わらずに進んでいくという安心感がほしいのかもしれない。
自分の内にある感情と物語の間で対話が成り立った時、言葉にしきれていなかった感情に物語が名前をつけてくれた時、それを「心が動かされる」と呼ぶのだと思う。この作品は、何度も私の心を動かしてくれた。純文学であまり部数が見込めないからという簡単な理由で、多くの人の目に触れること無く消えていくのは、あまりにも勿体ないと思った。
いくつかの会議でプレゼンをして、やや無理を言って書籍化の企画を通した。さっき、この会社は賭けることをしないと言ったけれど、こういう企画を通せる点で良かったと思う。純文学系の作品は、会社によっては書籍化するのも難しいと聞く。いくつもの優れた作品が書籍化されずに埋もれていると思うと悔しさも募るが、それを発掘して話題化させるのは、自分のキャパ的に年1回が限界だ。今年の発掘は、間違いなくこの作品になる。
本にするにあたって、『女のいない男たち』のように、それぞれ特に繋がりのない、でも雰囲気はどこか似ているような8つの愛をまとめる予定だ。温泉街を舞台にした表題作をはじめ、収録されたすべての短篇は、既に終わった愛と言えるかもしれない。その終わり方を噛み締めてもらえると嬉しい。
ちなみに、私と同じ北海道大学出身だよという方には特別胸に来る短編がある。
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こうして約3ヶ月かけて綴ってきた文章を読み返すと、自分の書く文はどこまでも内省的だ。「誰と」したかというのは、実際の体験としては深く心に刻まれているけれど、文章に残す上ではそこまで重要じゃない。
こうして記録に残すのは、自分の考え方を整理するために続けている。前回の記事を更新してからの自分は、たいがいこんな感じのテンションだったが、次はどうなっているのだろう。次々と新たな難題に襲われる嵐を抜けて、穏やかな空が広がっていることを祈る。
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