無人駅と灯り
時の流れは早いもので、鈍行列車だけを使って東京に帰ったあの日々は、もう1年近く前のことになってしまった。時間的距離は科学の進歩で日に日に近くなり、今では新千歳空港から羽田空港まで2時間足らずで着いてしまう。それをわざわざ5泊6日かけて行くのは時代に合わない話かも知れないが、僕はその地域の人々が使う鈍行列車で、場に根付く雰囲気を読み取るのが好きだったりする。赤字路線だと定期利用客が学生しかいなかったりするので、自分以外本当に誰も乗ってないということもあるけれど。
帰省を兼ねた旅は、札幌から南下を続け4泊目まで順調に進んだ。この日は山形新幹線の終着駅でもある山形県の新庄に泊まり、明日の長距離移動に備えて早めに寝た。
翌日、天気は大荒れだった。日本海側は暴風と大雨で、乗る予定だった路線は大幅な遅延や運転見合わせが相次いでいる状態だった。このルートで行くと当日中に宿に辿り着かないと判断し、僕は太平洋側に出て会津若松へ向かうことにした。何だかんだ旅先で起こるハプニングも楽しいので、このドキドキ感に高揚している自分もいた。
戊辰戦争の戦地として知られる鶴ケ城
大雪の会津若松で何とか鶴ヶ城を見学したあと、再び駅に戻り風光明媚なことで知られる只見線に乗り換える。列車のドアは令和の時代になった今限りなくゼロに近い手動式だった。この数日後に行われたダイヤ改正で只見線のキハ40は引退してしまったらしく、どうやら僕は貴重な体験をすることが出来たらしい。
この日の宿は福島県の三島町という小さな町にあった。最寄り駅の会津宮下駅は当たり前のように無人駅で、僕以外に降りた人はいなかった(そもそも列車に乗っている人がほぼいなかった)。僕にとって、深夜に一人で見知らぬ町の無人駅に降り立つことは初めての体験だった。
雪の積もったホームに灯りが反射する
街灯もない夜の集落を、スマホのライトだけを頼りにして歩き、橙の灯りのついた古民家を見て安堵した。体の芯まで冷えた僕にとって、何よりも暖められた部屋がありがたかった。
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翌朝、古い逆旅を発って会津宮下駅に向かう途中、神社があることに気づいた。昨夜はあまりにも暗く気づかなかった。只見線の線路によって、こちら側の世界とあちら側の世界が分離しているように感じられた。あちら側に行くと戻って来られないような気がして、そのまま駅へと向かった。
ここに線路が敷かれたのは偶然だろうか
駅舎に入ると、列車を待つ人たちがストーブを囲んで座っていた。昨夜は既に窓口の営業時間が終わっていたが、今朝は窓口が開いていて活気があった。雪の積もっていたホームも除雪されて、昨夜のどことない怖さは全く感じられなかった。
7時台、この日2本目の列車がやってくる
水墨画のような風景の中、鮮やかな緑のラインを纏った列車は遠くからでもよく目立つ。ゆっくりと只見川に沿って進む列車は、景色に見とれている間に終着駅へ着いてしまった。終着の会津川口駅から見える景色は、掛軸をそのまま現実に写したようだった。
3月になっても季節は冬のまま
只見線は、元々福島県の会津若松駅から只見駅を経由して新潟県の小出駅に向かう路線である。2011年に発生した豪雨災害により、会津川口駅から只見駅の間で10年に及びバス代行が続いている。
赤字ローカル線ということもあり、このまま廃線が濃厚と思われていたが、2022年に運転再開を目指すらしい。そう遠くない未来で、一度錆び付いたレールの上に、再び列車のヘッドライトが灯りそうだ。
只見駅、1日の列車は僅か3本
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