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課題図書全部読む【中学校の部】

中学校の部応募要項

・本文2,000字以内
※その他の応募要項は他の部と同様。小学校低学年の部を参照ください。

読書感想文全国コンクール公式サイト(https://www.dokusyokansoubun.jp/youkou.html

ノンフィクション

 ノクツドウライオウ 靴の往来堂 / 佐藤まどか (あすなろ書房)

 靴についての詳しい描写が好感を持てる作品だった。課題図書の対象である中学生でなくても、造詣の深さに驚かされる。単に靴屋という設定にしただけではなくて、そう設定したからにはそのディテールを描写することで説得力が増す。どんな皮があるのか、どんな器具を使うのか。どうやって型を取って皮を成型していくのか。皮の縫い方はどうなっているのか。それらを知らないとこの物語を書くことはできない。物語に深みを持たせるためにはそこを蔑ろにしてはいけない。中学生の読者はそう気づくだろうか。靴のこと詳しくて作者すげーなって表現でいい。そう思えたら自分はなにも知らないし、世の中には知らないことがいっぱいあることに気づく。
 そして自分に知識があったからといって、同じ物語を書くことはできない。自分ならこういう展開にする。こういう設定にする。最後に兄の真意が明かされる。意味深な終わり方をする。そうやって考えてしまう。僕は昔からそうだった。もちろん作者もその展開は考えたかもしれない。様々に考えた結果最良の展開を選んだ結果が出版されているのかもしれない。あるいはそんなものはなくて、物語が浮かんだ瞬間に結末まですべて見えてしまっているのかもしれない。
 この二〇〇〇字の読書感想文だって、読みながら思ったことがすらすらと言葉になって一気に書き上げるかもしれない。感想文で原稿用紙五枚分はけっこう多い気がして、なにを書こうかと考える。本をパラパラとめくって、書くべきことを思い出す。物語を反芻しながら、気づかなかったことに気づくこともある。だから単に読むだけじゃなくて感想文を書くことに意味があるのだろう。もちろん中学生の僕はそんな事を考えたことなどなかった。じゃあなにを考えていたのだろうか。思い出せない。だから、読書感想文は取っておいて大人になってから読み返せばいい。その可能性に気づいても後の祭り。もうこの世に中学生の時の感想文は存在しない。クソガキの頃の自分の文章なんて恥ずかしくて読みたくないかもしれないけれど、意外と頑張っているかもしれないよ。一〇年後や十五年後にこの文章を読み返してどう思うかなんてその時になってみないとわからない。それまで生きているかもわからない。
 この小説で印象的なのは、言葉を遮るという動作。心理描写がうまいということ。その人が思っていることをただ書き連ねるのではなく、行動でその人の感情を表現している。機嫌が悪いときに音を立ててドアを閉めてしまう。人間はそういう生き物だろう。直接口に出すこともあるだろうけれど、感情は動作や表情に現れる。あの人今日元気ないなどうしたのかな。お腹痛いのかな、悲しい出来事があったのかな、寝不足なのかな、とか色々考える。そういう想像力は誰しも持ち得るはずだ。「大丈夫だよ」と人は言うけれど、額面通り受け取っていい場合とそうじゃない場合があるとわかるはずだ。どこから? それは声だったり顔色だったり目線をそらしたりといった情報から理解する。わかっているけれど、それを物語の一部に組み込んで人間らしさを表現するのは個人的にはとても難しいように思う。それぞれのキャラクタには思惑があって過去があって癖があって、そういう人はどういう動作をするだろうか、想像しながら書くだろう。読者は逆に、その人の動作の意味を考える。実はこういう背景があって……と物語の後半で語られて、だからあのときあの行動を取ったのかと納得がいった経験があるはずだ。小説書くのうまいなと感動すると同時に、そこから人間がどういう生き物かを学ぶ。だから僕はフィクションを読む。
 もうひとつ、僕がフィクションを読む理由について思い至った。
 この物語の主人公たちは中学生だが、前向きに将来のことを考える姿勢が素晴らしいと思った。中学生の頃なんてなにも考えていなかった。それと同時に思うことがある。主人公たちの姿勢を応援してくれる大人がいるということは恵まれていると思った。自分のしたいことなんて、なにもさせてもらえなかったと僕は思っている。お前にそんなことできるわけないと言われて育ったのだ。だから酒を食らって本を読んでいるだけの人間になってもしかたないだろう? そうやって自分を正当化しなくていい人生はフィクションだとしか思えなかった。だからフィクションを読むのかもしれない。フィクションの中に逃げ込みたいから。そこに救いはあるから。
 この物語を読んだ中学生たちが、この物語をフィクションで終わらせないことを願う。自分の物語にすることを願う。自分を応援してくれる大人なんていないかもしれない。自分と変わらないと思っている同級生が自分の知らない野心を持っているかもしれない。まだまだどこにだっていける。この先どうなるのかなんて誰もわからない。
(1993字)


希望のひとしずく

 希望のひとしずく / キース・カラブレーゼ 代田亜香子・訳 (理論社)

 この物語は、アメリカの片田舎のお話である。町の北側と南側で「ノース」「サウス」と区別され、北側は比較的裕福な家庭が、南側には貧しい家庭がある。階級社会を意識させる描き方はアメリカの物語だからという感じがした。その点はあまり共感できなかった。
 そんな物語にも、共感できる点はあって、アーネストは親に何も教えてもらえないことに不満を抱いている。もう中学生なのに、いつまでも子供扱いするなという感覚はわかる。中学生はみんなそうなのだろう。国が違えど。大人になると中学生なんてまだまだ子供だと思うだろう。そのとき、中学生だった自分を恥じるかもしれない。
 例えば、スケープゴートなんて言葉、僕は中学生のときには知らなかった。その意味を調べようとしなかった。自分の知らないことから目を背けている。知らなければ無責任でいられる。背伸びしている自分がいるのに、大人になりたがっていない自分もいる。
 中学生の視点で描けているからこの物語は素晴らしいのだ。井戸にコインを投げて願い事をすればかなうという伝承を聴いてしまった主人公たちは人々の願いをかなえようとする。伝承を信じようという純粋な心がある。一方ライアンは、そんなこと現実的じゃないし願いがかなうなんてただの迷信だと言う。「さっきのヤツだって、悩みを吐き出したかっただけだ」と現実的な意見を述べる。どちらも中学生は持ち合わせているだろうし、どちらのキャラクタも存在するだろうと思う。物語を成立あるいは進行させる役割あるいは設定とはいえ、キャラクタの書き分けがうまいと思った。
 ネットの低俗な記事を批判するシーンがあって、現代に即した物語だった。アメリカの片田舎の物語であろうとも。注目を浴びることだけが目的の中身が何も無い記事。あるいは、断片的な情報から、勝手に類推して物語を作り上げる記事。そんなものを信用してはいけないし、鼻で笑わないといけない。あほちゃうかこいつらと、正常な判断が下せる大人にならないといけない。マスコミは偏向報道だという意見は多少わかるけど、そういうあんたらの言葉はそれ以上に恣意的な気がするよね。そんなのに煽られないで自分で考えて誰に投票したらいいかきちんと考えられる大人にならないといけない。
 そういう、自分たちのことしか考えていない社会に必要ない存在が罰せられる話で痛快だった。
 でも実際の世の中がそうなっているとは言えないのが現実だ。この物語のように、奇跡的なことが起きて願いがかなうなんていうことは現実ではほとんどありえない。それは物語的な都合で、世の中に伏線がそこら中に落ちているわけではないのだと気づいている。僕はとっくに。中学生のときは気づけなかったけれど。そういう点では危うい物語だ。残念ながらフィクションをフィクションと認識できない人間が世の中には一定数いる。そういう人々はこういうタイプの物語しか読んだことがない夢見る少年少女のままなのだ。あるいはフィクションを読んだことがなくて、初めてフィクションを読んだときにそれが現実の延長だと思い込むのだ。フィクションという概念を知らないのだから。何歳になってもそんなやつがいる。早く大人になれよ。大人になれば、ものわかりが良くなるという話ではなくて、現実は現実のルールや法則があるのであって、フィクションの世界と同じに見られては困る。喋るときと歌うときは同じではないだろう。歩くときと走るときは同じリズムではないだろう。ぶくぶく沸騰しているお湯を、キンキンに冷えたビールと同じように喉に流し込まないだろう。現実とフィクションの区別がついてない人は、お湯が沸騰しているのが見えていないのかもしれない。あるいは熱いものを飲んだらやけどすると知らないのかもしれない。そんなことでは自分に都合の良いものしか信じないあほになってしまうぞ。僕のように誰のことも信じてねえよになるのもどうかとは思うけれど。
 物語の最後にアール先生はとても大切なことを言う。物語は人間を結びつける。たとえ作り話であろうと。願いをかなえる井戸の話を聞いたから主人公たちは行動した。スケープゴートのことを聞いたからライアンは自らスケープゴートになることを思いついた。でもそれは他人を助けるため。井戸の物語の神聖性を守りたいため。読書感想文も課題図書も同様に。物語を読んで自分だったらどうしただろうとかあの人に似ているなとかこんな風になりたいなとか思うことだ。そう思うことはきっと大切で、本当は他の人の感想を読んでそういう考え方もあるのかと思い合えばいい。語り合えばいい。物語を読んだ人のそれぞれの物語を知れば、世界は更に広がっていく。希望のひとしずくというこの物語のタイトルは、この本のことを指しているのだ。
(2000字)


その世界はキミのものだ

 アフリカで、バッグの会社はじめました 寄り道多め仲本千津の進んできた道 / 江口絵理 (さ・え・ら書房)

 中学生のとき、自分の将来のことなんてなにも考えられなかった。視力が悪かったけれど、メガネをかけるのが嫌だった。教室の一番前の席に座っても黒板の文字がほとんど見えなかった。未来のことなんて見えるわけがなかった。三〇代になって飲んだくれているなんて想像していなかった。課題図書を読んでいるなんてこともだ。
 この作品はノンフィクションで、社会起業家のドキュメンタリーだ。ここに描かれているような誇れる人生を送っているかい? この課題図書を手にとって読んでいる中学生は、想像上の将来の自分にそう問いかけているだろうか。いや、誇れる人生なんて誰もそんなこと思っていないかもしれない。本になりうる人生なんて送りたくないかもしれない。もっと平凡なありきたりの人生を望んでいるかもしれない。そんなものを僕は見たことがないけれど。でも想像するのは自由だ。ああなりたいこうなりたい。そこから一歩踏み出す必要性を解いた本だった。
 自分がしたいことをしようと思っても、「そんなことするな」とか「そんな本読まんでいい」とかいつも否定されて育ってきた。だから、自分がなにかしたいと思うことに罪悪感を抱く。「そんなことお前はせんでええねん」ともう一人の自分が言う。そうじゃなかったパターンの人生もあるんだと本書は教えてくれる。そういう点では恵まれた人の話だ。誰しもが同じようには生きられないだろう。
 でもそんなことは関係ないんだと思う。思いたい。僕と同じように育った人間はそこから脱出する必要がある。それでようやくスタート地点に立てる、と思うだろう。僕もそう思っていた。なんで自分だけマイナスからのスタートなんだ。スタート地点にすらたどり着けない。もうつかれた。早く死なせろ。でもそう思った経験はお前だけのものだぜ。そんなふうになれたらいいよね。
 僕は世の中のことをなにも知らないことが不安でしかたがない。本書を読むまで知らないことがたくさんあった。ウガンダという国のこと。気候も経済的な状況も知らない。ファッション業界が環境に優しくないという事も知らなかった。それで当然なのだ。知らないけど、わからないけどやってみる、その世界に飛び込んでみる。それは素敵なことだろう。ここまであまり踏み込んで本の内容についての感想文を書いていないのは、僕とはかけ離れていて生きている世界が違うからだろう。そういうものを直視するのが恥ずかしいからだろう。眩しすぎて体が溶けてしまう。
 人生はそういうものだろう。たまたまそうだっただけだ。彼女はたまたまアフリカと日本を往復する生活を送っているだけだ。たまたまその人を題材にしたドキュメンタリーを書いただけだ。たまたまその本を読んだだけだ。課題図書を全部読もうと思ったのが去年だったらこの本は読んでいないのだ。その「たまたま」には自分の意思でどうしようもないこともあれば、自分の意思でどうにかなることもある。快速で帰った方が早いけれど、普通に乗ってゆっくり帰る選択をしたために事故にあわずにすむこともある。その選択は中学生には難しいだろうし、それがすべて意味があるかはわからない。意味があろうがなかろうがそれが人生なのだ。でもきっと中学生ならもっと様々なことを夢見ただろう。
 この本を読んだ子供たちは、かっこいいと思うだろうか。憧れるだろうか。逆に、そこまではなりたくないよだろうか。アフリカで働くことや、起業家として社会に貢献することが本書が伝えたいことではないだろう。自分の信念を持って、突き進む姿がいちばん大切なメッセージだと思う。自分の進む方向はどこだろうとはじめは探し回って、その方向をようやく見つける。その道を往きながら本当にこの方向であっているのだろうかと問う。もう少し前進するためにはどうすればよいかを問う。新たな出来事や出会いに立ち止まったり、立ち止まらされたりする。それと向き合って更に進むにはどうすればよいか問う。
 自分の突き進む方向を指し示す矢印は、はじめは小さいかもしれない。というか見えないだろう。それがやがて見えるようになってくる。様々なものを取り込んでその矢印は大きく成長するだろう。横からものがぶつかって違う方向を向いてしまうこともあるかもしれない。でも君の矢印は君の矢印のままなんだぜ。と子供の頃の自分に言ってあげたい。誰も言ってくれなかったから。
 今でも僕はその矢印が見えない。あるいは失ってしまった。なら新しく見つければいい。そこにはかつて自分を作ってきたものが渦巻いているだろう。地獄の底で聴いた救いの音楽のことを忘れることはないように。『どんな靴を履いてても歩けば僕の足跡』と、好きなミュージシャンの好きな歌詞は自然と口からこぼれるように。そうして歩いてゆくのです。
(1982字)


ひとこと

 書くのが遅い。夏休みなんてとっくに終わったというのに。

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縁川央
もっと本が読みたい。

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