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マスクが象徴する日本社会

<規範、流行の罠>
パンデミックから間もなく3年、日本が、いまだにマスクを外せないのは、なぜだろうか、人目を気にしすぎる国民性、横並びで世間体を重んじるから。若い世代は余計にネットでお作法を調べて行動するようになっているらしい。学校の先生たちも、教育委員会や親からのクレームや周囲の目を過度に気にして、現場をあずかる自分の考えを率直にいえない、立場が悪くなるのを恐れてしまう。大人に比べてより敏感に集団の中で身の置き方を探らなければならない生徒たちは、なすすべがない。規範、規則、流行(モデルやモード)に、ハマってしまう人間の習性を痛切に説いた、西部邁先生の著書を思い出す。的を得てた鋭利な思想家の先生が生きていたら、どう論じていただろう。道行く人々のスマホ依存などに嫌気がさし、深夜までバーで語り合い人と人の対面の触れ合いを重んじた方だったというから、心痛にあまる情勢だったに違いない。

<オープンマインド>
中国のように独裁体制による監視圧力があるわけではないのに、世界の自由を制限された人々からすると、気骨のない風潮は、申し訳の立たない不甲斐なさではないか。もっと俺は俺でありたいと思っていいいと伸び伸びした教育を目指すべきである。心理的にも人間は人目を気にしすぎることで、ストレスに悩む属性があるのだから、執着を解き放ち我が道を進むことが大事。誰か然るべき人物から外してよいと公に言われないと、いったん敷かれたルールを逸脱してはならないと画一的思考に陥ってないか。いやそれ以前に、有識者会議なのか政府であるのか、判断リスクを取らず、指針なりを示す気概などなくなっている。みんなで渡れば怖くないの逆バージョンといえば妙な比喩だが、同調圧力のジレンマと思慮する。

<寛容と潤いの大切さ>
キリスト誕生の時代、ユダヤ教の戒律・教理に捕らわれて、イスラエルの支配階級であったサドカイ人を連想した。杓子定規な傾向が強まると、社会の活力となる独創性や発想の幅が乏しくなるのは明白である。政治、社会、教育をリードする大人に器の大きな人物が減り、保身に走るばかり。意味のない暗黙の了解をまき散らして、そこにみんながしがみ付いていく。更に、コンプライアンス遵守や再発防止といった監視員の過度の配置は、うるおいをなくしドライな方向に傾斜する。「はみだし者」へ厳しい視線を浴びせ、窮屈な世相を過剰にしている気がしてならない。海外に移住する芸能人やユーチューバーも目立ってきているが、少なからず、動機はこうした習俗にあるのかもしれない。おおらかさを見失い、世知辛い社会がもたらす影響を今こそよく考え、将来を担う若い世代のために、豊かな彩ち溢れる多様性と心の広さを与える社会の軸を巻き戻していくことが求められる。

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