羊文学”more than words”とアニメ”Sonny boy”から考えるー近代有限性以降の世界
◼︎羊文学”more than words”における有限性
この曲のポジティヴな部分はきっとみんなが前向きに色々考えてくれると思うので、今回は主に悩んでいる部分について取り上げていきたいと思います。
2番のAメロにも「決めきれない自分にグルグルグルする」という歌詞があることからもわかるように、”more than words”の中には、過去への後悔と未来の可能性に対して今自分がどう行動するべきなのかの悩みが所々にみられます。
これは2番の歌詞です。先ほど引用した歌詞とあわせると、正解を選ぶことと失敗を避ける選択をしてしまい、自分が本当にしたいこと(=本音)を見過ごしてしまっている状況が描写されています。
このような状況は、誰もが一度経験をしたことがあるのではないかと思います。「自分が本当にやりたいことはなんだろう…」とか「この選択は将来にとっていいのだろうか…」、「あのときこうじゃなくて、ああしておけばな…」などですね。
特定の選択をすることやしたことにおいて、過去に対する後悔と未来に対する不安は際限がないですし、「本当にやりたいこと」なんて本当にあるのだろうかという問い自体も際限がない(=無限性)ですよね。
ここに、哲学における近代有限性という考えが現れているのではないかと考えています。
◼︎近代有限性とは何か
近代における人間の有限性についてまずは引用を見ていただければと思います。
「この捉えきれないもの」というのは、ラカンのいう「本当のもの」=Xです。私たちが求めている「本当の自分」や「本当にやりたいこと」などに該当します。
私たちがなぜこのX的なものを求めてしまうのか、探してしまうのかについては、フロイトまで戻るのですが、子供が母(=その存在なしでは生き延びることができない他者)を父(=社会的な第三者)に奪われることから始まる「疏外」によって引き起こされます。
イメージにも言語にもできないX的なものは、私たちの原初に起こるため、その後は到達不可能な領域です。
私たちは「本当の自分」や「本当にやりたいこと」というX的なものを求めてしまいますが、それは到達不可能です。そのため、それらしい何か(=対象a)を転々としながら、X的なものを求めつづけることになります。これが引用した「空回り的人間像」です。
羊文学の”more than words”まで話を戻してくると、「うまく返事できたか」と悩みつづけるのが「空回り的人間像」です。ただ、返事の正解はX的で正解はありません。何を言っても結局後悔があり、過去と未来の狭間でグルグルすることになります。”more than words”の中にある「本音」も「正解」も結局、それらしい何かで、本当の正解はないということになります。
◼︎アニメ”Sonny boy”における有限性のその後
内容については、Wikipediaのあらすじを載せます。めっちゃ良かったのでぜひ見てみてください。
2021年に放送されたSFアニメです。マルチバース的な世界観で、ありえたかもしれない世界を行き来しながら元の世界に戻ろうとするストーリーです。
突然、生徒たちに特殊能力が与えられるのでびっくりしましたが、それは突然ランダムに与えられて格差を生みます。中学校という集団のなかで、そもそも生まれや家庭環境など、現実にも格差があるため、現実の格差のメタファーになっているのかなと考えました。
6話までが学校内でのはなしであり、メタファー的な卒業をした生徒たちが、7話からは色々な世界にそれぞれに旅立ちます。7話で主人公の長良は、バベルの塔を何千年も建築し続けている世界に迷い込みます。そこでは、何年も前に現実世界からこの世界に漂流(=ワープ)してしまった、同じ中学校の先輩(漂流者は全員同じ中学校に通っていたのですが、)がおり、印象的な言葉を残します。
この「偽物の希望」はかなり対象a的で、Xにたどり着けないという諦めです。この言葉に、主人公は違和感を覚えています。このシーンは、実際の社会でも新入社員がそこで働いている人たちと自分にギャップを感じることと相似形がありそうです。「この商品を売ることにどれだけ意味があるんだろう…」とか「この人たちはなんでこんなことやってるんだろう…」とかですね。ある種のパラノイアであることに対する、猛烈な抵抗感に近いですね。
こういった経験をしていく中で、主人公は「やっぱり元の世界に戻りたい」と決意をしていきます。
なんやかんやあって元の世界に戻るのですが、長良によって可能性のサイコロが振り直された世界のため、完全に元の世界ではありませんが、自分が選択した世界での生活に戻っていきます。これはつまり、自分が選択した対象a的な世界です。X的な「完璧な世界」は存在しないが、あくまで自分が選んだ、対象aの中で生きていくことはできます。
これは偶然性を引き受け、自分の手の届く範囲でアクションをとっていくという近代有限性への対処となります。
元の世界に戻るために様々な行動を起こした主人公にたいして、戻ってきた世界でクラスメイトが行った一言です。
実際に主人公は、1話では怪我をした鳥を放置しますが、最終話では親を亡くした鳥を助けようとします。自分が選んだ、それらしい対象aの世界ですが、行動を少しづづ変えようとする主人公が描写されています。
◼︎世界をほんの少しでも動かそうとするアクション
自分が自分の手の届く範囲で、アクションをして少し、ほんの少し世界を動かそうとすることは、羊文学”more than words”の中でも描写されています。
私がこの記事の冒頭で述べた「過去への後悔と未来の可能性に対して今自分がどう行動するべきなのかの悩み」は、”今、ここ”という一回性に基づいています。ただ何かに流されて選択をしてしまうことや、悩んだ末に何もしない、重要なことだと思わず何もしないという、選択や行動をそもそも起こさない(=世界を少しでも動かそうとしない)ことはなしにしようよと、どちらも作品も私たちに訴えかけているのだと思います。もちろん哲学も。
X的な「本当の世界」「本当の自分」「後悔しない選択」は存在しないが、それを諦めるのは違う。対象a的ではあるものの、少しだけ自分が納得できる世界、偶然今ここにこうしている自分、後悔するかもしれないが今の自分がした選択、といった具合に、偶然ではあるものの、偶然だからこそ、今目の前にある何かに対して、今いる自分を通して世界にアクションを起こしていく。こういったスタンスが現れている2つの作品であったと考えました。Live only once.
◼︎おわりに
今までは2つの作品を同時に取り上げるということがなかったため、非常に骨が折れました。
羊文学も最高だし、Sonny boyも最高だったがゆえに書き上げることができたのでよかったです。
哲学的な概念は非常に理解が難しいので、言葉があってるかが不安ですので、有識者の方ぜひコメントで訂正をお願いします。
最近は、最後に引用したティモシー・モートンの著作を読んでいますが、非常に難解です。自分の考えを整理するためにも、一章ごとに記事を書いて投稿していけたらいいなとも考えてます。
「事物は、過去と未来の深淵に開かれた運動の交差点にある。」どうやったらこんなかっこいい言い回しが思いつくんですかね。
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