”サイバーパンク:エッジランナーズ”から考えるー容赦のない存在と余剰
▫️”サイバーパンク:エッジランナーズ”とは
久しぶりにアニメを見たので、”Sonny boy”に続き”サイバーパンク:エッジランナーズ”の感想を書いて見ようと思います。アニメを見終わったら大体、”I Really Want to Stay at Your House”を一週間は無限リピートすることになると思いますが、まだ見たことないよという人もぜひNetflix公式の1時間耐久AMVをご覧ください。
Youtubeで簡単に調べてみても、国内外を問わず号泣しているサムネイルや「泣くぞ」「傑作」という言葉が使われており評価が高いことが伺えます。(個人的には評価を高くせざるを得ない、否定しずらい作品だと思います。)
「苦しむ(いい意味で)人の感想を見ることでしか喪失感を上書きできない。できれば連休が始まる夜から見始めて、1~2日で見てその後の余韻でしんでほしい(いい意味で)」
「はかないし、虚しいし、もう…なんと表現すればよいかわからなくて、心の整理がなかなかつかない。」
「観終わった後には、思わずため息を漏らして感嘆してしまう。あのシーンの音楽を探してしまう。あの表情をもう一度観たくてリピートしてしまう…
そんな後を引く唯一無二の世界を提供してくれる作品だ。」
このアニメに関するNoteの記事も多数あり好評のようです。(勝手に引用してしまいすみません。気に触るようでしたら消しますのでコメントでお知らせください。)
▫️キーワードは何か
この記事では、感想やあらすじを書いても仕方がないので、視聴し終わった人が感じる「喪失感」「儚さ」「余韻」について考えてみたいと思います。
ストーリーの良さ(否定しずらさ)やキャラクターの素晴らしさについては触れませんが、それらを否定しているわけではありません。むしろキャラクターデザインやストーリーの素晴らしさが「喪失感」「儚さ」「余韻」をより、私たちにもたらしてくれていると思います。ただ、この記事では詳しく触れません。
▫️レヴィナスの哲学
素晴らしいアニメや映画を見た後の喪失感、その中で構成されていた世界へのノスタルジー、頭の中でリフレインする登場人物のセリフや音楽。これらの感覚に陥ったとき、必ず思い出す本があります。
レヴィナスの紹介を別の本から簡単に紹介したいと思います。
レヴィナスの詳しい思想に関しては触れません(触れる能力がありません)が、第二次世界大戦の体験という本当にギリギリの場所(=Edge)から存在を問い直した哲学者です。
▫️レヴィナス入門「はじめに」を考える
熊野純彦氏の文章は、感覚的には理解しにくいレヴィナスの哲学を、読み手の心に、思考の感覚を残してくれているような印象があります。その印象は「はじめに」からあらわれています。
著者(=熊野氏)は、小学生の頃電車の窓から眺めた景色が、徐々に変容していったことに子供ならがのもの悲しさを感じています。ただ、その悲しさは、変容したことだけではなく、「工業地帯の佇まいそのもの」へ向けられています。著者はその経験をメタファーとしてレヴィナスの思想を紹介しています。
さらに続けます。
工業地帯(=ある存在)は、物を作るという目的を持っています。ただ、私はその目的からこぼれ落ちています(余剰である)。ゆえに、私の周りを包む光景は、近くにあるにもかかわらず、遠く離れた場所のように感じていると著者はとらえていると言うことができそうです。
▫️社会の余剰としてのエッジランナー
この「存在が目的に対して有する余剰」という辺りに”サイバーパンク:エッジランナーズ”との相似形が見出せそうです。
学校に通うデイビッドもエッジランナーとしてのデイビッドも、実はどちらも目的からこぼれ落ちた余剰でしかありません。(これはルーシーやメインなど全てのキャラクターに当てはまります。)
教育という目的からドロップアウトし、エッジランナーとしても実は、ナイトシティという社会の存続には何も寄与していません。別にデイビッドでなくてもいいのです。これは作中でも言及されています。
SFアニメや映画は、街の描写が異常に綺麗で、ひとりの無力な人間とそれに関わらず稼働し続ける社会の対比が分かりやすいですね。
だからといってフィクサーであるファラデーやコーポに勤める人間は余剰ではないかというとそうではないように思います。おそらく全ての人間は、ナイトシティという得体の知れない究極の存在が有する余剰でしかありません。
▫️究極の存在であるナイトシティとは何か
少しだけレヴィナスの思想に戻ります。レヴィナスは、第二次世界大戦を生き残ってしまった。
熊野氏はこう述べます。「親しい者たちと言う中心を喪失してしまった世界がなお在る。世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまってなお、世界はたんにあるのだ。(同書p.56)」
何かがただ単にそこにあるという暴力。ユダヤ系であったレヴィナスにとって、大戦後の世界はまさに異郷であり、「部屋があり、部屋にはテーブルがある、つぼがあって、つぼのなかには薔薇がる。整理された部屋があり、バラの美しさがある。屋外には風があり、見上げれば夜空がる。あるいは空の青さがある。(p.52)」ようなものであったと著者は述べています。
対戦後の世界は、レヴィナスにとって、空の青さのように日常的にすぐそこにある究極の暴力として存在していたのではないでしょうか。
レヴィナスにとっての対戦後の世界、デイビッドにとってのナイトシティ、私たちにとっての現実世界。どれも程度は違えど暴力的にそこに存在してしまっています。我々もデイビッドも、強大な生産の中で生まれた一粒の雫のようなものなのです。
(現実の戦争とSFの世界を比較するのはまったくもっておこがましく、危険な行為です。メタファーとして戦争や哲学を使ってしまっていることにも問題があることは承知しております。心を害された方がいらっしゃったら大変申し訳ありません。)
▫️ルーシーにとってのナイトシティ
「たんにある」ことの容赦のなさはもちろん、デイビッドを失ったあとのルーシーにも当てはまります。その逃避先が月ですが、元々ルーシーは月に行きたがっています。
デイビッドがナイトシティの余剰であるように、ルーシーも例外なくデイビッドと出会う前から世界の余剰なのです。
世界(=ナイトシティ)にルーシーの居場所はありません。なぜなら、ルーシーにとっての世界は身近なのに遠く、遠いのにその中で存在しているという矛盾を孕んでいるものだからです。
ルーシーにとってもデイビッドにとっても、世界とはただそこにあってしまい、それゆえに、精神的にも暴力的な場所であったと言えそうです。
▫️すべてに意味がないのか
これでは、「全部意味がなかったんだよね」という無味乾燥な結論に終わってしまいそうなので、もう少し掘り下げます。
デイビッドやルーシー、その他登場人物の一瞬の輝きはなんだったのでしょうか。また、一節から紹介します。
存在は暴力的であると同時に、奇蹟でもあり贈与であると述べられています。
悲劇であると同時に、他者と出会うという「あり−がたさ」もあるということになります。この両義性の振り幅の中で、それぞれの登場人物がかけがえのなさを感じているのです。
10話という少ないエピソードは、我々視聴者にとって、デイビッドやルーシーの濃縮された思い出のように映ります。走馬灯を見ているような気分になります。それにより、仲間同士のかけがえのなさ、生と死の一瞬の儚さをより感じやすくなっているのではないかとおもいます。
▫️さいごに
結論まで長くなりましたが、視聴し終わった人が感じる「喪失感」「儚さ」「余韻」などの感想は、ただそこにあってしまう暴力的で究極的な存在と、それゆえに生まれる存在のありがたさの振り幅によって生まれるのではないかと考えます。
自分という存在にかかわらず容赦なく存在する世界があると思ったら、そこに奇蹟的なつながりも生まれる。と思ったら、そのつながりは一瞬で、現実は容赦なくそこにあり続けている‥。
私たちは、サイバーパンクエッジランナーズという全く編集不可能な存在から隔絶され、何かしたいが、どうしようもないやり場のない気持ちを抱え、懐かしむこと(ノスタルジア)しかできないのです。
▫️あと語り
長すぎで自分でも何が言いたかったのかわからなくなりました。分かりやすくするために、少しずつ手直しをするかもしれません。
サイバーサイコシスという症状の設定は、攻殻機動隊 stand alone complexの電脳硬化症の設定と似ているなと思ったり、エッジランナーとブレードランナーってなんか掛けてるのかなと思ったり、色んなSF作品を思い出しながら見れてとても良かったです。
ポップアップに行ってグッズを沢山かいこんじゃうくらいにはハマりました。まだ見てない方は是非見てみてください。
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