ウィルバー理論解題(その5):ホロンの20原則(1~2)
ケン・ウィルバーは、様々な分野の専門家や研究者たちが、この世のすべて、森羅万象、一切衆生を地図化しようとして、今まで個々ばらばらに続けられてきた知的な努力の成果を、一本の糸で繋ぎ合わせようと試みた。その「糸」として持ってきたのは「ホロン」という概念である。
一口に「ホロン」といっても、それはどのような実態を持っていて、どのような性質・特徴・属性を持ち、どのように働くのか、それが今回のテーマになる。
ホロンという概念は、今まで主に進化論やシステム科学の分野で語られてきた。つまり物質圏や生命圏での概念として扱われてきた。したがって、「ほとんど客観的な自然科学の言語」(「それ」が主語になる言語)によって記述されてきた。しかし、ウィルバーは心圏(「私」や「私たち」が主語になる言語で記述される領域)においてもこの概念を適用しようとする。
もちろんウィルバーはそれを慎重にやっている。ホロン概念を物質圏、生命圏、心圏の三つの領域に適用するにあたり、ウィルバーはホロンが持つパターンを「20の原則」としてまとめているが、その作業を『抽象化とレベルとタイプにおいて「それ」「私たち」「私」が主語になる領域(あるいは真、善、美、の領域)のどれにも完全に適用できるように十分に注意した』という。
では、4つ目の領域である「神圏」においてはどうなのだろう。
そうしたことを踏まえつつ、ここではウィルバーの言う「ホロンの20原則」について、ひとつひとつ見ていこう。
なお、この概念はウィルバー理論の根幹を成すものであるため、少し念入りに見ていきたい。
テキストとして用いたのは、ウィルバーの主著である「進化の構造」だが、この論考は、もちろん原文より長いわけではない。だとしてもかなりの長文になっている。
そこで、本来はこれら20の原則は区切りを入れられるものではないが、便宜上常識的な長さに分割して、何回かに分けてお届けしようと思う。
一回目は、原則1から2までをお届けする。
■ホロンを知ればすべてがわかる
まずは、前回の復習から始めよう。
この世はすべてホロンでできている。ホロンでないものなど存在しない。物質もホロン、宇宙もホロン、生物もホロン、脳もホロン、人間の意識も無意識もホロン、社会もホロン、個人の行動も集団の行動もホロン、政治体制も、文化も、宗教も、神話も、文学や芸術も、すべてホロンでできている。
これらはすべて、ホロンからホロンとして生成し、ホロンとして進化し、またホロンへと還っていく。
ならば、ホロンの性質を知り、それがどのように生成し、どのように動き、どのように進化し、どのように崩壊するのかを知れば、この世界の成り立ちがわかる、ということだ。物質や有機体や人の心や社会や文化や文明をどのように扱えばいいのかがわかるはずだ。いかに戦争を終結させ、貧困や格差をなくし、地球環境を整え、世界に平和をもたらすか、という問題もそこに含まれるはずである。
「この世界とはどのようなものか」「人間とは何か」「人間、どのように生きるべきか」といった壮大なテーマを扱ううえでもっとも重要なことは、どれだけ大きな地図を手にできるか、ということだろう。もしその人間が小さな(ごく部分的な)地図しか手にしていないなら、ごく限られた領域を示すその地図だけで全体を推論することになる。小さな懐中電灯で照らせる範囲だけで「闇」全体を測ることにならざるを得ない。
言ってみれば、ウィルバーはそうした還元論を避けるために、なるべく大きな地図を提示する意味から、「ホロン」という概念を持ってきている、とも言えるだろう。
ウィルバーは、ホロンに共通するパターンを調べることにより、ある特定の領域のみを特権化したり、ある特定の基本性をすべてのレベルに適用するようなことにならずにすむとし、次のように述べている。
物理学者は、「そもそも宇宙はクォークで構成されている」と言い、ある種の言語学者、哲学者、記号論者は「そもそも宇宙とはシンボルで構成されている」と言う。どちらの陣営も、「それが結局人間の知りうるすべてなのだ」と言明するが、そうした「特権化」は決してうまくいかない、とウィルバーは言う。
分子生物学から散逸構造まで、惑星の進化から心理的な成長まで、自己組織システムからコンピューター・プログラムの作成にいたるまで、言語の構造からDNAの複製にいたるまで・・・
医者は「あなたの病気はホルモンが原因です」とは言うかもしれないが、「あなたの病気は、様々なホロンが連動して病理化していることが原因です」とはなかなか言わない。しかし、ウィルバーは、あえてそれを調べようとしている。
というわけで、ウィルバーは、知り得る限りのホロンが共通に示す性質、特徴、属性といったものを12のカテゴリーに分類し、合計20の原則としてまとめている。
ただし、次のような断り書きもつけている。
■まとめ:「ホロン」とはどのようなものか
さて、これも前回の復習になるが、「ホロン」とは何かを定義する場合の、もっとも重要な大原則だけ、先に列挙しておこう。
○この世界(「Kosmos」)は、物質圏、生命圏、心圏、神圏において、それぞれがそれぞれの「顔」を持っているが、共通する点は何かというと、すべては「ホロン」である、ということだ。
○すべてのモノやプロセスはホロン構造を持っている。しかしすべてのモノやプロセスがたったひとつのホロン構造に還元されるわけではない。
○「ホロン」とは、ある文脈において全体であると同時に別の文脈において部分である一単位のことである。
○すべての実在/現実(リアリティ)は、それがモノであろうと生物であろうと、抽象概念であろうと、あるいは何かのプロセスであろうと、すべてホロンでできている。
○何かの部分でしかないもの、何かの全体でしかないものは存在しない。すべては全体であると同時に部分(つまり「部分/全体」)である。
○ホロンは「創発」する。すべての「部分」を単純に足し算しただけでは「全体」にはならない。全体とは、部分の総和を超える何か新しいものが付加されたものである。すなわち、全体は部分の総和を含んで超える。
○ホロンは階層構造で構成される。全体に見えるものは、より上位の何かにとっての部分であり、部分に見えるものは、より下位の何かにとっての全体である。したがって、階層構造をどこまで下位に下がってもホロンであり、どこまで上位に上がってもホロンである。この世は青空天井と底なし沼でできている。
○あらゆるホロンは、「自律性・自己保存性(エイジェンシー)」と「協調性・自己適応性(コミュニオン)」の両方の性質を持つ。
○あるレベルのホロンが消滅すると、それより上位のホロンはすべて消滅するが、それより下位のホロンは消滅しない。
「ホロンとは何か」を理解するうえで、上記の大原則だけで充分と言えば充分である。したがって以下に示す20の原則は、さらに深く知りたい人のための覚え書き程度のものだと思っていただいてかまわない。
■ホロンの20原則
ケン・ウィルバーは、「進化の構造1」の中で、ホロンの性質・特徴について、次のような12のカテゴリー、合計20の原則に分けて説明している。
なお、以下の説明は、すべて「進化の構造1」の第二章「結び合わせるパターン」を全面的に参考にしているが、原文の単なる要約ではなく、私自身の解釈を多分に含んでいる。もし解釈違いがあれば、ご指摘願いたい。
また、引用の出典も基本的にはここ(もちろん邦訳書)からである。特に断りのない引用は、すべてウィルバーの言葉である。
1.リアリティを構成するのは、モノでもプロセスでもなく、ホロンである。
ある全体は、それより上位の全体にとっては部分である。その全体もまた、それより上位の全体にとっての部分である。この連鎖、この関係性はどこまで上へ上がろうが、どこまで下へ下がろうが、無限に続く。「下にとっての全体とは、上にとっての部分」というこの連鎖、この関係性は、モノであろうがプロセスであろうが、外面であろうが内面であろうが存在する。つまり、真の「多様性」を考える場合、水平方向の広がり(平等性、同等性、異種性)だけではなく、垂直方向の広がり(階層性、レベルや深度・高度の違い)を同時に見る必要がある。ところが、多様性・平等性を主張したがる人間ほど、上下関係を認めたがらない、という傾向がある。
私たちの世界認識に「ホロン」という概念を導入するもっとも重要な意味とは——つまり、ホロンの概念を導入することで、私たちがもっとも大きくパラダイムシフトを強いられることになるのは——「全体論(ホーリズム)」とは何か、という議論においてだろう。
世はまさに「全体論」ブームである。いや、このブームは今に始まったことではなく、20世紀はまさに様々な科学的・思想的分野で全体論の試みがなされた時代だったと言っても過言ではないだろう。
この世界をたったひとつの「全体」としてとらえるなら、その統合理論とはいかなるものか? どのような全体的原則が、この世界を支配しているのか?
この疑問は魅力的に響く。なぜなら、この世界全体を支配するたったひとつの絶対的原則を知り得た者は、知り得ない者に対して優位な立場に立てるからだ。「ザ・シークレット 引き寄せの法則」なる、およそ根拠の希薄な成功法則が「これさえ会得すれば、あらゆる願望が実現する」式の秘儀めいた形でブームになったり、あるいは同じ目的や文脈において「スピリチュアル」が根強い人気商品になっている事情を勘案しても、そのことが透かし見える。
しかしウィルバーは、「宇宙の基本原則は全体性である」と言える地点はどこにもない、と言う。むろんその一方で、「基本原則は部分性である」と言うこともできない、と言う。
「この世は、たったひとつの全体的法則に支配されている。あなたの運命も私の運命もその法則に則っている」とすれば、誰でもがその法則を知りたがり、知っている(と主張する)者は特権化する。この特権化そのものが支配的なヒエラルキー構造を作り出している。あるは、支配的なヒエラルキー構造であればあるほど、特権化が進行する。
この世界は、たったひとつの完全なる「全体」として構成されているとしてしまったとたん、実は全体論者が追い求めているはずの「多様性」「平等性」「同等性」「異種共存性」は、どん詰まり、デッドエンド(バッドエンド)、あるいは「バニシング・ポイント(消失点)」を迎えてしまうのである。ウィルバーはこの「バニシング・ポイント」の代わりに「オメガ・ポイント(終極点)」という概念を提示している。もちろんウィルバーがこの言葉を用いるのは主に「意識学」の分野においてだが、それでも私はこの言葉が全体論的な「どん詰まり」を回避するのに大いに役立つと言いたい。これについては原則20で取り上げる(ちなみに、オメガ・ポイントについては「統合心理学への道」に詳しい)。
結局のところ、唯一絶対の究極的な「完全なる全体」の存在を主張したがる全体論者たちは、社会的ユートピアを設計したがっている、とウィルバーは指摘している。とはいえ、そういう彼らが主張する「全体」からは、驚くほど多くのものが排除されている、という点もウィルバーは強調し、そのあまりに不完全な「完全なる全体」を主張したがる全体論者には、その一見合理的に見える社会プランによって人をイデオロギー的に支配しようとする意図が(彼らが意識している・していないにかかわらず)あることに対して注意喚起する。
これは後々明らかになるが、イデオロギーによって人を支配しようとする全体論者が「階層構造」というとき、それは往々にして「ヒエラルキー」、つまり支配的な階層構造あるいは単に階級制のことを言っている。しかし、残念ながら自然界にはそうした支配的な「ヒエラルキー」は存在しない。自然界に現実的に存在するのは、ホロンを構成単位とする階層構造である。これを「ホラーキー」という。外面的な世界であろうと、人間の内面であろうと、本来階層として存在するのはホラーキーなのだ。したがって「ヒエラルキー」とは、イデオロギーによって捻じ曲げられた「ホラーキー」のことだろう。捻じ曲げられたものは、不自然で不健全で病理化する。「ヒエラルキー」とは、病理化した「ホラーキー」のことなのだ。
「ホラーキー」を模式図にするのはなかなか難しい。下図はその3つのパターンだ。左側の図はアーサー・ケストラーの「ホロン革命」から拝借してきたものだ。これだとホロンが階層構造になっていることはよくわかるが、ホロン階層が「入れ子」になっている様子はわかりにくい。真ん中の図は、その入れ子の構造(上位が下位を含んで超えている様子)はよくわかるが、「上位対下位」が「一対多」の関係になっていることはわかりにくい。右側の図は、入れ子構造と「一対多」の関係はよくわかるが、階層性はわかりにくい。
つまり、この3つの図は、多様な側面を持つホラーキーを、ある側面を強調するかたちで部分的に模式化したものであるとお考えいただきたい。
2.ホロンは「自己保存」「自己適応」「自己超越」「自己分解」の四つの基本的な力を持っている。
a.自己保存(エイジェンシー)
自己の存在を主張し、自己を保存し、同化させる性向。
あらゆるホロンは自己独自の全体性や自立性を保存するために、自己の独自性を保とうとする力を見せる。
言い換えれば、ホロンはその相互連結的な関係や環境(文脈)のおかげで存在しているとはいえ、環境(文脈)によって定義されているわけではない。むしろ相対的に自律的で一貫性のある自己の形態、パターン、構造によって定義されているのである。
b.自己適応(コミュニオン)
ほかに加わり、結合し、結びつく性向。
ホロンは単に自己を保存する全体として機能するばかりではない。それは同時に部分であり、部分であるからには自己を他のホロンに順応ないし適応させなければならない(同化ではなくて適応であり、自己創出ではなくて異質創出である)。
aとbをまとめておこう。
全体としてのホロンは自己であり続ける。部分としてのホロンは周りの環境を認め、反応する。つまり、「エイジェンシー」は自分の独自性を保持しようとする力であり、「コミュニオン」は環境と共同して自分とは異質な何かを創出しようとする力、ということになる。この相反する二つの力が同時に働いている以上、ホロンの自律性は絶対的なものではなく、あくまで相対的なものである。
この「エイジェンシー」と「コミュニオン」は、どんなシステムにおいてもバランスが重要で、バランスを崩すと、自己を識別できるパターンを破壊するか、病理化する。それは、植物の成長においても、家父長制の成長においても構造的な奇形を招く。すなわち病理的なエイジェンシー(自己疎外と抑圧)と病理的なコミュニオン(自己溶解と自己非分離)が存在するのである。
タオイズムの陰と陽の関係もコミュニオンとエイジェンシーである。
心理学的には、男女の価値空間の違い、政治学的には、権利(エイジェンシー)と責任(コミュニオン)として表れる。
c.自己超越(または自己変容)
異なった全体が一緒になって、新たな異なった全体が形成される。自己適応ないしコミュニオンにおいて、ホロンはより大きな全体の一部である。一方、自己変容においてホロンは新たな全体となるのである。その新たな全体は、さらに新たなエイジェンシー(相対的な自律性)とコミュニオン(環境への適応性)を持つ。
酸素原子1個と水素原子2個が適切な環境で結びつくと、水の分子になる。水の分子は、それらの原子(それ自体独自の全体としてエイジェンシーとコミュニオンを持つが)の単純な寄せ集めではなく、それを超えて新たな(一段階上位の)全体として独自のコミュニオンとエイジェンシーを持つ。
人間の意識(心ないし内面)にも、発達に応じて、これと同じ自己超越(ないし自己変容)の現象が起きる。
進化とは、自己超越によってもたらされる質的な変化だが、同時に相互依存的な世界においてのみ存在できる。すなわちエイジェンシーとコミュニオンの両方が安定的な進化を保証している。
進化に伴うこの自己超越(自己変容)は、進化がそれぞれの段階やレベルに移行するときに、「対称性が破れる」(全体は部分の総和を超えている)ことを意味する。「全体とは、部分の総和である」ならば、それは垂直方向に「対称的である」となるが、「全体とは、部分の総和を超えた何かだ」となれば、それは垂直方向に「非対称的である」となる。
進化とは、単なる要素の並べ替えや寄せ集めではなく、連続する新たな創造を意味する。
したがって、進化のさまざまな段階や異なったレベルは、お互いに還元することができない。水の分子を、「酸素+水素+水素」という単純な計算式に還元することはできない。
進化においては常に、「A+B+C」は「ABCα」になる。
進化(自己超越)とはまた、水平方向に働いていたエイジェンシーとコミュニオンの力に対し、(突然)垂直方向に働く力が導入されることを意味する。自己超越において、エイジェンシーとコミュニオンは関与しないのではなく、むしろ対称性の破れによって新たなエイジェンシーとコミュニオンが出現するのである。
進化は、連続して起こるが、そこには非対称性と非連続性も存在する。水平方向の変化ばかりを追っていると、突然垂直方向の「変容」が起きることに、私たちは驚かされるようだ。実際、その事情は「突出」「跳躍」「躍進」「断続的(非連続的・非対称的)進化」などと表現される。
自己超越の力は、宇宙開闢以来ずっと働いてきた。そこに何らの形而上学もオカルトもない。そもそもこの力が働かなければ、ビッグバンはあり得ないし、この力が働いていない領域は存在しない。
d.自己分解
(自己超越によって垂直に)積み上げられてきたホロンは、また崩れ落ちもする。予想できることだが、ホロンが「溶解」したり、「ばらばらに剝がれ落ちる」ときには、積み上げられてきたのと同じ過程をたどって(もちろん逆方向に)崩壊していく。
ある構造が進化の過程で撤退を強いられるとき(すなわち非平衡状態の変化によって)、大きな混乱がないかぎり、来た道と同じ道をたどって撤退する。ルートAを辿って登山したものは、同じくルートAを辿って下山する。決してルートBを辿りはしない。つまり、このホロンが登りも下りもルートAを選択するのは、偶然ではないということだ。
このことは、原初的な、全体的なシステムの記憶(メモリー)がすでに化学反応のシステムに現れていることを意味している(つまり偶然でもなく、学習による後得的な力でもない)。
垂直に積み上げられてきたものは、垂直に崩れ落ちる。
自己超越によって、一段目の上に二段目が、二段目の上に三段目が、というかたちで積み上げられてきた進化の階層は、三段目から二段目へ、二段目から一段目へ、というかたちで自己分解する。細胞は分子に分解し、分子は原子に、原子は素粒子に、素粒子は確率論的な「泡のなかの泡」の超限的に続く雲のなかへ消えてゆく・・・。
以上4つの力は、エイジェンシーとコミュニオンが水平方向に引き合うベクトルとして、自己超越と自己分解が垂直方向に引き合うベクトルとして位置付けることができる。
この上下左右に引き合う4つの力は、常に緊張関係にあり、4つのバランスが重要になる。そのバランスが崩れ、特定の力が過剰になったり突出したりすると病理化する。
水平方向のエイジェンシーとコミュニオンの引き合いは、垂直方向の自己超越と自己分解の引き合いにも複雑なかたちで関与している。
過剰なエイジェンシーも過剰なコミュニオンも崩壊に結び付く。過剰なエイジェンシーはそもそも独立性を維持してきた豊かなコミュニオンのネットワークを断ち切ってしまい、過剰なコミュニオンは自己の自律性、一貫性、統合性を失わせ、他のホロンとの溶解をもたらす。
たとえば、男性的病理は過剰なエイジェンシー(過剰な自律意識)あるいは関係への恐怖というかたちを取りやすい。女性的病理は過剰なコミュニオン(過剰な関係性意識)あるいは自律への恐怖というかたちを取りやすい。関係への恐怖は支配に結び付き、自律への恐怖は溶解(依存・同一化)に結び付く。
人間の意識の成長を考えるなら、エイジェンシーは「私は私だ。周りがどうあろうと関係ない」と言い、コミュニオンは「私は周りから承認され、評価されたい」と言うだろう。この両方の力がバランスよく働いてこそ、一段上の意識レベルに上がれることは容易に想像がつくだろう。どちらかの力が過剰になったり突出したりすると、個のホロンはとたんに病理化する。
自律的な成長欲求は「より大きな意味」を見つけ出したいという欲望と結び付くが、その欲求は過剰なコミュニオンを招いたり、「より大きな大義」への溶解(大義との心中)を招いたりする。それは、防衛の名のもとの戦争を正当化したりする。つまり「自国の大義が重要で、他国のことは関係ない」になる。これは、明らかに超越と溶解を混同した例である。ここでは、エイジェンシーとコミュニオンの両方が一緒になって自己分解へと向かわせているのである。超越に偽装した溶解は、宗教への妄信としても表れる。しかし実際のところそれは、単に自律性(エイジェンシー)の喪失と自己責任(コミュニオン)の放棄にすぎない。
ホロンがその自己同一性を保持するためには、適切なエイジェンシーと適切なコミュニオンを保つ必要がある。企業は、競合他社と敵対するだけでも協調するだけでも生き残れない。また特定の市場に反発するだけでも溶解するだけでも生き残れない。
エイジェンシーは、時間的な連続性の中で自己を保存する必要を意味し、コミュニオンは、空間的な(他のホロンとの)関係性を保存する必要を意味している。両者はどちらにも還元できない。「この世界は多様である」というとき、どうしても空間的な広がりに目がいきがちだが、実際には時間的な多様性もある。私のコミュニオンは、私とあなたの「間」で働いているが、私のエイジェンシーは、私の過去・現在・未来において働いている。そうでないなら、私のコミュニオンとエイジェンシーが共同して、新しい、より上位のコミュニオンとエイジェンシーを創造するといったことが起こり得ようか。
エイジェンシーとコミュニオン、自己超越と自己分解、この4つの力の緊張関係は、次のような葛藤として表れたりする。
○「個」の保存か「種」の保存か?
○権利か責任か?
○個人か集団か?
○一貫性か適応性か?
○利己主義か利他主義か?
○唯物論か観念論か?
○伝統的な原子論(すべてのものは孤立した個的な全体であって、その相互作用は偶然による)か全体論(すべてのものはより大きな全体の部分である)か?
まだまだある。数え上げればキリがないだろう。男か女か? 宗教か科学か? 生か死か? 多様性か唯一性か? 決定論か確率論か? 因果論か目的論か? 神か悪魔か? 天国か地獄か?・・・人間は、こうした二項対立に和解をもたらしつつ前へ進んできた。これらはどれも、人間が歴史的に行ってきた思考プロセスの歩みそのものもホロンの働きであることを表わしている。
これらはどれも、次のように言い換えることができる。
「私は、どのようにすればどちらも犠牲にすることなく、一個の全体でありながら、より大きな全体の部分であり得るだろうか?」
この「AかBか」という葛藤に答えを出すには、垂直方向の自己超越が必要になる。どちらか一方のシステムを採用して、もう一方は廃棄する、というやり方では答えは出ない。つまり、旧い二つのシステムを統合し(含んで超えて)、ある意味旧い二つのシステムを両方廃棄し、新しいエイジェンシーとコミュニオンを獲得する必要があるのである。