ウィルバーと私(その3):ウィルバーとヒルマン
私がウィルバーと出会ったのは30代後半だったと記憶しているが、ちょうど同時期に決定的な出会いをしたのが、ユング派の心理学者であるジェイムズ・ヒルマンだ。ヒルマンの「魂のコード」を、邦訳が出た1998年にさっそく読んで、目からウロコが落ちた。以来、同書は、ウィルバーの著作同様、私の座右の書になっているが、面白いことに、ウィルバーとヒルマンは、私の目からは、どうもお互いを牽制し合っているきらいが見受けられる。
ヒルマンは、私の手元にある邦訳書を見る限り、1960年代から著作活動を一貫して続けている。しかし、全米ベストセラー書となると、おそらくこの「魂のコード」が最初なのではないだろうか。原書が出版されたのが1996年だが、「魂」などという得体の知れないものを心理学的に扱うという内容の本が、合理主義のアメリカでNo.1ベストセラーになった、ということ自体に、私などは驚いたものだ。
一方、ウィルバーの方は、1977年に出版された処女作「意識のスペクトル」が、すでに全米ベストセラーとなっている。「人間とは何か」に関して、東洋と西洋の考え方を見事に融合させたこの処女作(ウィルバーがまだ20代)は、当時のニューエイジ運動やトランスパーソナル心理学などのブームに背中を押されて広く読まれた事情はうなずける。
ヒルマンに比べれば世代的に下であるウィルバーの方が先にベストセラーメーカーになった、という事情もあるのだろうか、直接名指しで、ということではないにしろ、この二人はどうもお互いをライバル視している風情がうかがえる。たとえば、ヒルマンの方は、ウィルバーが処女作から大きく取り上げている「影の投影」という心理学的概念に対し、「まあ、それも重要だけど、それだけじゃね」といった態度でいるし、ウィルバーの方は「ヒルマンの考えも悪くはないが、もう旧いかな」といった言い方で応じる、といった具合なのだ。
もしかしたら、ヒルマンが魂について充分すぎるほど語っているので、ウィルバーはあえてそこを詳しく語らないのかもしれない、と私などは邪推したくなるのだ。
ここはやや説明不足なので付け足すと、ウィルバーとヒルマンがどうのこうのという前に、おそらくユング心理学からポスト・ユング心理学への「超克」作業という話になってくるだろう。ヒルマンは、ユングの直系の弟子で、「元型的心理学」というかたちでユング心理学を体系化した人だ。そのユングの言う「元型」という概念について、トランスパーソナルな視点から「読み直し」あるいは再構築を行ったのがウィルバーであるとも言える。
たとえば、ウィルバーは「万物の歴史」の中で、ユング的な意味での「元型」の考え方が、近代以後に登場した人間の「超個的」な成長・発達領域からすると、少なくとも古代的な意味合いの「元型」と、ポストモダン的な意味合いが強い「元型」とを明確に分ける必要性を強調している。そういう文脈の中で、ヒルマンを含むユング以後のユング派の中にさえ、こうした明確な使い分けがなされておらず、むしろ古代的なものとポストモダンの超個的なものとの混同がしばしば見られることを指摘している。
誤解を恐れずに、ごくザックリ言ってしまえば、人間がこの世に誕生して生きていく、ということは、ヒルマンにとっては魂の下降(グロウ・ダウン)を意味する。一方ウィルバーにとっては明らかに成長(進化)つまり上昇(グロウ・アップ)を意味する。この点をとってみても、両者はまったく正反対のように見える。
ところが、そうしたことを踏まえたうえでも、私個人の中では、ウィルバーとヒルマンは何の齟齬もなく、最初から融合しているのである。もちろんそれは、双方を私が勝手に(ある意味、双方に居場所を用意するかたちで)解釈しているからに他ならないだろう。
口幅ったい言い方で恐縮だが、年齢的なことも踏まえるなら、私にとって、ヒルマンは魂の父親であり、ウィルバーは魂の兄である。父と兄は、どうも互いを牽制しているが、私は「父さんも兄さんも、互いにものの言い方は違うかもしれないけど、ボクにとっては根っこは同じだよ」と言ってやりたくなるのだ。世代間ギャップで、考え方の違いはあるだろうが、どちらも魂レベルではつながっているだろう、と・・・。
確かに、ヒルマンとウィルバーの間で、心理学的な新旧世代交代が行われたのだろう。そういう意味では、ウィルバーはヒルマンを「含んで超え」ている。そう、子どもが父親を超えて先へ進むように・・・。
そうだとしても、少なくとも私は双方の遺伝子(魂のコード)を均等に受け継いでいると感じる。もちろん、父親がいたから子どもがこの世に現れたのだ。ユング心理学があったからこそ、ポスト・ユング心理学が可能なのだ。魂がこの世に降りて来て肉体に宿ったからこそ、そこを起点にした進化も可能になる、ということだ。
そんな二人の「魂の継承者」としての私に言わせると、人間を考えるうえで、ウィルバーだけでも、ヒルマンだけでも足りない。たとえば、ウィルバー理論だけでは、フェミニズムに関して言及することはできたとしても、LGBTQについて語ることはできないだろう。一方、ヒルマン理論だけでは、LGBTQについて語ることはできても、全人類共通の「隠れた地図」あるいは「ビッグ・ピクチャー(大きな地図)」について知ることはできないだろう。つまり、ウィルバーとヒルマンは相補的なのだ。
また、牽制し合っているように見える両者だが、私から見ると、兄は何だかんだ言って、ちゃんと父をリスペクト(ないしオマージュ)している。ヒルマン理論は平たく言うと「ドングリ理論」だ。たとえば樫の木のドングリには、将来樫の木になるべきすべての要素が内包されているが、それと同じように、人間の魂にも、将来何者かになるべきすべての要素が暗号化されて内包されている、という考え方だ。ウィルバーは、どんな文脈かは忘れたが、「樫の木のドングリの中身」といった喩えを、ちゃんと使っている。
というわけで、いつしか「ウィルバーとヒルマンの理論的融合」といったことが、息子あるいは弟としての私のライフテーマとなっている。その前哨戦と言ってもいいかもしれないが、私は「インテグラル夢学」を、ユング理論をウィルバー理論へコンバートする作業からスタートさせた(※1)。
さらに言うと、私も少しひねくれた性格なので、父と兄を本格的に融合(和解)させる前に、親戚のおじさんの考え方を借りてきて、まずはそのおじさんの考え方と兄の考え方をお見合いさせて、何とか結婚の契りにまでもっていった、という経緯がある。そのおじさんとは、やはりユング派の一人、トマス・ムーアである。ヒルマンとムーアの「兄弟」は、極めて相性がいい。実際の関係性においても、親友同士らしい。そこでまず私としては、ムーアとウィルバーの「相性」を確かめてみた次第である。その経緯は「インテグラル夢学各論編」(※2)に詳しく載せた。
さてさて、ならば当然の成り行きとして、次はいよいよ父と兄の和解に取りかかる、ということだろう。
まあ、その前に、もう少し兄の言い分に耳を傾けて、日本における兄の評価を上げておきたいところだ。ただし、お断りしておくが、これは兄のためにではない。
(※1)https://note.com/anthonyk/m/ma605569f7fc3
(※2)https://note.com/anthonyk/m/m6b91eb0c1ad7