シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その7):「取り入れ」から「統合」へ
■「内在化」とは「統合」のことである
前回、「取り入れ」と「内在化」という二つの対立する概念について触れました。今回はまずこの二つの概念について、もう一歩踏み込んでおきます。
「取り入れ」とは、社会的なルールや規範を噛み砕かずに丸飲みにしている状態ということでした。ルールや規範が自分の内部に定着しているのではなく、いわばルールや規範の内部に自己が存在する(ルールや規範に乗っ取られている、洗脳されている、マインドコントロールされている、など)という状態です。こういう人が、そのルールや規範に則らない人を見ると、激しく批判(攻撃)し、有無を言わさずルールや規範を守るよう頭ごなしに強制するでしょう。こうして強制(統制)は上から下へ伝播することになります。
一方「内在化」は、ルールや規範をよく噛み砕いて消化し、それに基づいて自発的に行動している状態です。つまりそのルールや規範を「換骨奪胎」し、「自家薬籠中のもの」にしている、といったところです。言い換えるなら、自分自身はそのルールや規範の「外」にいて、それを道具として使いこなしていて、自分自身はそれを超えた存在である、と自己認識している状態ということです。「そのルールや規範は、私の一部です(私がそのルールや規範の主人です)」という状態です。決して「私は、そのルールや規範の一部です(そのルールや規範は私の主人です)」ではないのです。
こういう人は、ルールや規範を人に守らせるときに、きちんとその理由や意義について説明でき、守らないとどうなるかも説明できるはずです。そのうえで人に自由選択の余地を残すことができるでしょう。つまり、自発的なヤル気を人から引き出せるのは、ルールや規範を内在化できている人だけ、ということです。
こういう状態を、心理学的には、そのルールや規範において「統合」されている、と呼びます。「統合」の反対は「分離・分裂」ないし「同一化」です。「統合」の反対が「分離・分裂」であるというのはすぐにわかるかもしれませんが、「統合」の反対が「同一化」である、というのはちょっとわかりにくいかもしれません。
ルールや規範には物理的な形があるわけではなく、目には見えません。「分離・分裂」も「同一化」もあくまでその人の内部で起きていることです。したがって、その人とルールや規範との関係は、あくまでその人の言動から推察するしかありません。
そこで、「分離・分裂」とは、本来自分の一部であるはずのもの(ここではルールや規範)が、外側から自分に押しつけられていると感じてしまう状態のことです。いわば、目に見えない幻に怯えたり抵抗したりしているわけです。言い換えるなら、「分離・分裂」とは、本来自分の一部であるはずのものに対する拒否反応(アレルギー症状)と言えます。この状態が激しく病理化すれば、統合失調症(精神分裂症)にも発展しかねません。
「同一化」とは、本来自分の一部であるはずのもの(ここではルールや規範)が、自分のすべて(全体)であると思い込んでしまう(それと一体化してしまっている)状態のことです。いわば、本来自分の一部であるはずのものに中毒(嗜癖、依存)してしまっている状態です。
このように「分離・分裂(アレルギー)」も「同一化(中毒)」も、いわば「統合」できていないことによる異なる「症状」ととらえることができます。
この「分離・分裂」ないし「同一化」の状態から「統合」の状態へ向かうことを「成長」ないし「進化」と呼びます。つまりここでは「内在化」と「統合」はほとんど同義語です。
さて、以上のことを踏まえたうえで、今回のテーマです。
エドワード・L. デシ博士の共同研究者でもある米ロチェスター大学心理学教授リチャード・ライアンらの研究チームは、子どもたちを対象に、統制的なやり方と自律性を支援するやり方が、社会的ルールや規範に対する「取り入れ」と「内在化(統合)」にどう影響するか、また、活動の質に対してもどう影響するかを、様々な条件で実験しました。
その実験の顛末をご紹介します。
■実験1:統制せずにルールを自主的に守らせる方法
●前提条件:
五歳と六歳の子供たちを二つのグループに分け、絵を描かせる。
一方のグループには「いい子だから、道具をきちんと使いなさい」「守らなければならないことをきちんと守りなさい。絵の具をまぜこぜにしてはいけません」などの言葉で子供を統制して規則に対するプレッシャーを与え、もう一方には、「絵の具をこぼして遊ぶことが本当に楽しいことはわかるんだけど、ここは他の友だちも使うから、道具や部屋をきれいに使ってください」と言い、子供に与えるプレッシャーを最小限にし、統制感を和らげ、かつ、できるだけ多くの選択肢を与える。
●結果:
子供の自律性を支える条件では、子供を心理的に解放する効果が見られたのに対し、統制する条件ではヤル気を失わせた。大人が自分を理解してくれると感じた子供は、制限が統制的であった子供よりももっと内発的に動機づけられ、より熱心な様子を見せた。
●結論:
自律性を支える仕方で制限を設けることによって、つまり相手を操作したり統制したりする対象と見なすことなく、制限される側の立場に立ち、相手が主体的な存在であることを認めることによって、独自性や自主性を損なわずに責任感を持たせることができる。
●教訓:
ある活動をするにあたってのルールを守らせたいとき、相手が子どもであろうと大人であろうと、そのルールを守ることの意義や、守らないとどうなるのか(これは、どんな罰則が待っているのか、ということではなく、お互いにどんな不都合があるのか、ということ)をまったく説明せず、ただ頭ごなしに強制するなら、人はその活動自体に対する興味を失い、自発的にその活動をやるのではなく、強制されてやる、という認識になってしまう(内発的に動機づけされない)ということでしょう。
「言うことを聞いてくれるなら、別に相手が内発的に動機づけられようが外発的であろうがどっちでもいい」とあなたは思うかもしれません。特に仕事となると、いちいち相手の自発性を支援などしていられない、というのがホンネかもしれません。また逆に、子どもに、教え子に、部下に早く自立してほしいと思う熱心な親、教師、上司であればあるほど、相手に厳しく接しようとするかもしれません。
しかし、いったん強制という手段を用いるなら、あなたは永遠に相手に命令を発し続け、その命令が自分の意図通り遂行されているかを永遠に監視し続け、遂行されていないなら相手を何らかのかたちで罰する、という作業をくり返さなければならないことになります。では、あなたが何らかの理由でその活動に関われなくなったとしたら、その家庭は、その教室は、その職場はどうなるでしょう?
それだけではありません。ほとんどの年長者が年少者に対して統制的に振る舞い続けるとしたら、この国は、この世界はどうなるでしょう?
■実験2:自発的なヤル気は活動の質も向上させる
●前提条件:
実験1で得られた子供たちの絵に対し、心理学者のテレサ・アマビールによって開発された方法を用い、次のような手順でその質を検討する。
1.二つのグループの子供たちの絵を一緒にしてランダムに並べかえ、創造性と技能という二つの観点から6人の評定者によってすべての絵を評価してもらう。
2.それぞれの絵の得点を元のグループ別に再び分けて、それぞれの平均値を算出する。
●結果:
子供の自律性を尊重するかたちで制限を設けたグループの絵の方が、子供を統制するような制限を設けたグループに比べ、より多くの色が使われ、より独創的なデザインで、より変化に富んだモチーフを表現していた。
●結論:
人は、内発的に動機づけられると、単に精神の高揚を経験するだけでなく、その活動の成果も質の高いものとなる。
●教訓:
あなたが「できる」人間であればあるほど、人に何かを頼むことは苦手でしょう。自分でやってしまう方が簡単だし、結果も質の高いものになることがわかっているからです。
しかし、それでは人は育ちません。相手があなたの子どもや教え子や部下だったなら、親としての、教師としての、あるいは指導者としてのあなたの手腕が問われるわけです。子育て、教育、指導がなるべく早く自分の手を離れるためには、やはり相手の内発的なヤル気を引き出す方法を用いるしかないのです。
「統制」という方法を用いるなら、あなたは相手に対し、命令し、監視し、試験し、評価し、場合によっては罰を与えることをくり返すことになります。
一方、自律性を支援する方法を用いるなら、あなたは相手に対し、やがてただ感謝し、賞賛し、労をねぎらうだけになっていくでしょう。
■実験3:成績をつけると学習の成果が下がる
●前提条件:
小学生を対象に、教科書に載っている二つの短い文章を読ませる。
半数の子供には、読んだ文章についてあとでテストし、成績がつけられると予告し、もう半数には何の予告もしない。
さらに、この実験の一週間後、すべての子供たちにこの文章に関する記憶の度合いを抜き打ちでテストした。
●結果:
テストの予告を受けた子供たちに比べ、予告なしの子供たちの方が、学習内容を概念的にきちんと理解していた。ただし、機械的な暗記に関しては、テストを予告された子供たちの方が高得点だった。
ところが、一週間後の記憶度テストでは、テストを予告されて学んだ子供たちの方が、忘れた量が多かった。実験者はこのことを、コンピュータ用語を使って「コアダンプ(記憶内容をすべて出力すること)」と呼んだ。
同種の実験を、大学生を対象に行った例では、半数にテストを予告し、もう半数には、学習した内容をあとで他の人に教えてもらうのでそのつもりで学ぶように告げた。その結果、やはりテストを受けると告げられた条件に比べ、後に活用する情報として学ぶ条件をつけられた被験者の方が、学習内容を概念的にきちんと理解していた。
●結論:
評価されることを前提に学んだ場合には、中身を覚えることに集中するが、十分な情報処理をしないため、概念的な把握に欠け、記憶への定着度も低下する。
この種の実験は、日本でも鹿毛雅治(教育心理学者)によって公立の中学生を対象に行われた。この場合、半数にはテストで成績がつけられると予告し、もう半数には、生徒自らが学習成果を確認するためにテストをするのであって、その結果は成績には反映されないと告げた。その結果、やはりテストを前提に学習した生徒の方が自発的なヤル気が低く、さらにテストの得点自体も低かった。
他の研究でも、内発的に動機づけられているときに比べ、外的な報酬のために活動しているときの方が、問題をうまく解決できないという結果が出ている。
●教訓:
「テストを受けて成績をつけられる」という前提で学ぶと、「教科書暗記型」の学習になってしまい、記憶に定着しづらく、定着したとしてもそれは単なる知識のレベルで、その知識を使って問題解決する、というところまではいかないようです。つまり「使えない知識」になってしまう、ということでしょう。
「テストはあるが、成績には反映されない」「後で人に教えてもらうための勉強だ」という前提で学習すると、おそらくその知識の「意義」ないし「上位概念」「概論と各論の違い」などを意識するため、応用のきく知識となるのでしょう。
ここでポイントは、テストをする・しない、成績をつける・つけないの問題から、「知識教育」から「概念教育」にいかに移行するか、という問題になってきます。これは指導者の手腕が問われる問題です。イデオロギーの押しつけにならずに概念教育ができる人は、100人に一人いるかいないかでしょう。
■実験4:「取り入れ」は不安を煽る
●前提条件:
小学生を対象とし、現場の教師に、学校での活動に対する児童の動機づけに関して、「取り入れ」と「内在化(統合)」の度合いを測定してもらう。
また、児童自身に、よい成績をとるためにどの程度一生懸命がんばっているかを質問する。
●結果:
規範を高度に「取り入れ」ている児童も、規範を高度に「内在化(統合)」している児童も、教師の目からは、どちらも動機づけが高かった。また、どちらのタイプの児童も、自分は一生懸命がんばっていると報告していた。
ところが、取り入れの高い児童は、学校に対して非常に強い不安を感じており、失敗に対して不適応的な対処パターンを示した。これに対し、より統合された児童は、学校での生活を楽しみ、彼らの努力が失敗に終わったときも、より健全な対処パターンを示した。
●結論:
取り入れの高い児童が不安を感じているとしたら、つまり一生懸命にがんばって、よい成績をとっているにもかかわらず、不安を感じているとしたら、それは彼らが自分自身のためというよりは、そうしなければいけないから、あるいはそうすれば認めてもらえるからという理由で、他者(親や教師)を喜ばせようとすることにもっぱら焦点を合わせているからだろう。
ところが、一般に教師の言うことに従順に従う(規範を「取り入れ」ている)児童は、しばしば模範生と見なされ、かえって注意を払われず、対照的に、自己主張が激しく反抗的な児童ほど、教師の注意をことさらに引くだろう。つまり、がんばってもがんばっても、教師に振り向いてもらえない、という皮肉な状況が生まれる。
ルールや評価を単に「取り入れ」ている場合、人はしばしばどれだけ一生懸命に努力しても、期待される水準に届かないと思いがちだ。このようにして、楽しい経験の場であるはずの学校から、真の活気と熱意が失われていく。
●教訓:
人を動機づけるのに、「アメ(報酬)とムチ(懲罰)」というやり方は逆効果であることはすでに見てきましたが、相変わらずこの旧態依然とした(迷信的な)やり方を信じ込んでいる人もいるようです。
特に「アメ(報酬)」どころか「ムチ(懲罰)」が強調され、統制が「脅し」の領域にまで達しているなら、もはや「不安」を通り越して「恐怖」による支配になっているに違いありません。
新興宗教や自己啓発セミナーなどによるマインドコントロールの典型的な手口として、恐怖と安心感を交互に与え続ける、というのがあることを、私たちは知っておく必要があるでしょう。
そこまで極端ではないにしろ、それに近い結果になり得ることが、家庭や学校や職場において繰り返されている現実も、私たちは見過ごすわけにはいきません。こうしたことを、国家が法制化や政策(制度化)というかたちで国民に対してやる場合さえあります。
誰か(あるいはあなた自身)が、得体の知れない不安に年中さいなまれたり、物事についつい引っ込み思案になってしまったり、社会的なルールや規範に過敏になったり、人からの賞賛を素直に喜べなかったり、あるいは罰や非難を避けることがある行動の動機になっている、ということがあるなら、その人(あなた)は、厳しい統制を受けてきたのかもしれません。
私たちがこれまで様々な心理学的実験によって見てきた自発的なヤル気を引き出す動機づけの方法は、いわばこうした統制の真逆の方法です。
つまり、「アメ(報酬)とムチ(懲罰)」という方法を用いず、他者と競争もさせず、締め切りも設定せず、目標も押しつけず、監督や監視もせず、成績もつけず、テストもせず、言葉に統制のニュアンスをいっさい含めず、相手の自律性を支援するかたちで社会化を促進する、ということです。
そんなことは、本当に可能でしょうか?
もしこのやり方が、上記のように「~しない」「~してはいけない」という「禁止」のオンパレードになるなら、それこそが統制的な方法に成り下がってしまいます。
では、私たちが自分自身を統制するのでないかたちで、他者の自律性を支援するには・・・?
試しにこのテーゼを、「どういう人ならそれが可能か?」という問いに置き換えてみましょう。
まず、自分自身が社会化の促進者から統制的に扱われ、それ以外の方法を知らず、ルールや規範を単に「取り入れ」ているだけの人には無理であることは、すでに述べました。
つまり、人はどのようなプロセスを経て「取り入れ」から「内在化(統合)」に至るのか、ということが重要になってきます。このプロセスを意識的に経験し、自分が「成長」ないし「進化」を遂げたことを自覚できている人なら、「取り入れ」状態の人の気持ちも、「内在化(統合)」状態の人の気持ちも両方理解できるはずです。こういう人なら、特別なノウハウを覚えなくても、自然に相手の自律性を尊重するかたちで対処できるのではないでしょうか。
というわけで次回は、「取り入れ(同一化)」から「内在化(統合)」へのプロセスというテーマを掘り下げたいと思います。
※参考:エドワード・L. デシ/リチャード・フラスト著「人を伸ばす力」新曜社