図1

「第二の皮膚」の起源

 身体にとっての衣服は、長い間「第二の皮膚」という身体に従属するものであると見做されてきた。これは、マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan, 1911-1980)が1964年に出版した『メディア論』で、身体を取り巻く様々な環境を「身体の拡張」とするなか、「衣服は身体の拡張」であるとしたことがその認識を広めたと考えられており、モード論において衣服は「第二の皮膚」として定義される。

 衣服を「第二の皮膚」とする認識は、マクルーハンの『メディア論』が出版された20世紀の半ば、ちょうどフランスの既製服企業のヴェイユ社が1949年に「プレタポルテ(prêt-à-porter)」 の語を広告に用い、1960年代にオートクチュール(haute couture) のデザイナーが続々とプレタポルテを発表し 、1973年にプレタポルテ組合が設立されるまでのオートクチュールがモードの中心だった時代からプレタポルテが隆盛を極めるモードの転換期に即するものであるように見える。戦後の発展によるスピード感と大量生産へシフトする世界環境のなかに対応するかのように着替えられる質の衣服は、まさに着脱できる皮膚である。しかし、この「第二の皮膚」の定義が初めて言語化されたのは、19世紀後半にオートクチュールの始祖、シャルル・フレデリック・ウォルト(Charles Frederick Worth, 1825-1895)が新しい方式の衣装店を設立 したのと同年の1858年、詩人のティオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautier, 1811-1872)の「モードについて」においてであった。

現代において衣服は、人間にとって、いかなる理由をもっても身から切り離すことのできない一種の皮膚と化しており、動物を覆う毛のように、人間にぴったりついては離れない一種の皮膚と化しており、それゆえ実際の身体の形態は、今日では全く忘れさられているほどである。※1

 19世紀後半のこの時代は、クリノリン やバッスルスタイル が流行しており、コルセットの着用など、身体のふるまいを規定するどころか形態を変容させる衣服が散見される時代であった。その密着感についてゴーティエは衣服が「模造の皮膚」としての「第二の皮膚」であるという言説を生み出したのに対して、1960年代は様々な変遷をたどって多様な衣服の種類が存在するようになり、衣服は環境に向かって広がる身体の表面の延長として語られるようになる。この約100年のめまぐるしい変容が起こった期間の「第二の皮膚」言説は、時代により小差はあるものの、衣服が身体を環境に投げ入れるための装置とみなしている。言い換えれば、このような言説を中心に創出されるモードは、「見られる身体」を作り出す装置なのである。


※1 テオフィル・ゴーティエ「モードについて」鈴木啓二訳『現代思想』22(14): 228-234、東京:青土社、1994年12月、228頁。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?