一生 学校に行きたくない。
タイトルは学びの機会を得たくない、という意味ではなく義務教育の学校というシステムの中に入りたくないという意味です。
まだ人生、学生だった期間の方がずっと長いもので学生時代の癖が抜けないことがある。学生気分でいられると困るよ、なんてお小言が社会から飛んできそうで恐ろしい。仕事を甘く見ているとかそういうわけではなくて、ただただ長年の癖が抜けないね、というだけの話です。
ときおり朝目が覚めると瞬時に「学校に行きたくない」というワードが浮かぶのです。
そして若干の怯え、身体の硬直。そして意識が明確になってきてようやくセルフツッコミ。
「もう学生なんて年齢じゃないでしょうに…」
そんな朝をやり過ごす時が、未だにある。
高校からは比較的穏やかに過ごしていたので、この癖は中学時代の残滓です。困ったものを残してくれたなあ。学生時代の、それも一部の暗闇が、今も密やかに私の中で息づいている。
社会というものは便利なものです。職務を真っ当にこなさねばならないのだから、表面上でも普通は取り繕おうとする。逆に言えば、それが出来ない人とは関わらない方が良いという合図にもなりうる。例えば、他人の悪口を共有することを「仲が良い」と勘違いしている人とかですね。それは友人ではありません。共犯です。
つまるところ目的がある集団の中ならば目的達成のために人間関係を多少円滑にすることをわたしも相手も強いられているので安全性が確保されているわけです。裏でどう思っているかとかは考えなくてよろしい。わざわざ確保された安全を自ら疑って損なうようなことをする暇は人生には無いのです。これはまた別のお話。
ならば、まだ取り繕うことを知らない子供たちが、大きな目標もない「学校」という場所へ連れていけばどうなるか。
残酷に人間性に評価を下してそれに準じた扱いをする。少し変わっていれば、傷をつけることもためらわない。
その自身の評価をまざまざと見せつけられる学校という場所が嫌いで仕方なかった時期の名残が今も残っているのです。
程度に差はあれど、精神的には一種のPTSDに分類されるようで。数年間ストレスのかかる環境に置かれた脳がバグを起こしているわけですね。結局私たちは脳の電気信号で意識というものが朧げに象られる存在でしかなく、そこに異常が発生すればわかりやすく意識に問題が出る。人の心って脳の働きの残像でしかないのですね、本当に。
目が覚めた瞬間だけ、私は14歳に戻る。
それは長らく朝を迎えた時に恐怖を抱いていた脳が当時の状況を再構成しているだけのこと。
けれど心境の中では確かに見えるその一瞬の絶望感が色鮮やかなことが若さなのだとしたら、早く老いてきちんとした大人になりたいものです。
逆に言えば、大人って割と自由で過ごしやすいよって、あの頃の自分に言ってあげられたら喜ぶのかなぁ、なんて思いながら。
背筋の凍った朝をやり過ごした日を噛み砕いて眠りにつこうとする、そんな夜です。
次の起床は、穏やかな成人の私として起きられますように。
いつか、そんなこともあったなあと遠い出来事になりますように。
無神論者の私には願いを託す神もいないけれど、どうか、と祈らずにはいられないのでした。
その願いを叶えるのは神様じゃなくて未来の私だ。頑張って忘れてくれ、私。
もう学校に行かなくて、いいんだよ。