野田地図「正三角関係」を観劇しました(ネタバレあり)
今回は「カラマーゾフの兄弟」です
今回の野田地図の公演「正三角関係」ですが、7月28日のマチネで無事に観劇することができました。今週は過酷な仕事を進めてきたので、そのご褒美という形で見に行くことができた感じで、良かったです。
チケット争奪戦に関しては、以前のエントリーにも書きましたが、とにかく無事に確保できて一安心。楽しむことができました。
今回はドストエフスキーの最高傑作「カラマーゾフの兄弟」をモチーフに作品世界を作っています。さらにこの作品には野田さんが最近戯曲に盛り込む「過去の歴史における人間の大罪」を意識した内容になっています。
(以下ネタバレでいきますので、観劇がまだの方は読むのはやめておきましょう)
今回は「○○」です
「カラマーゾフの兄弟」の話に絡ませてきたのは「長崎への原爆投下」です。このあたりの流れはかなり早い段階でわかります。永山瑛太さん演じる次男の威蕃が物理学者という設定で、そのときに新型爆弾の起爆装置というエピソードが出てきます。外側に火薬を配置して、内側に向けてウランを圧縮するという話は原爆の製造方法と自分は知っていたので、ああー今回はこれかと、すぐに分かりました。あとはこのエンディングに向けて、どう作っていくか?と思いながら見ていました。
専門家ではないので、細かくは書きませんが、広島に投下されたものと長崎に投下されたものは、構造が違うものです。アメリカはそのことも試したかったので2発落としたと言われています。
配役が豪華、そして素敵だった
事前の評判どおり、やはり松本潤さんの起用はすごい状況で、野田さんの舞台は劇団・夢の遊眠社以来から見てきて、今回が過去イチ女性ファンが多かったと思います。それくらい嵐・松本潤さんの人気の凄さを実感しました。
実際、舞台上にいる松本さんは、やっぱり華やかさが常にどこかに漂うスターなんだと思います。長男の花火師・富太郎役ですが、最後のシーンまでそのスター性が舞台上で観客を引っ張っていたと思います。
自分が見たときは、少し喉の調子が悪かったようで、特に舞台前半は声が出にくくて大変そうに見えました。枯れている程ではないのですが、喉になにかひっかかりがある発声でした。後半はだいぶ持ち直したので良かったのですが、連日の舞台でやや飛ばしすぎたのでしょうか?まだ先は長いので、頑張って欲しいと思います。
次男の威蕃の永山瑛太さんは、野田さんの舞台では「逆鱗」が印象的です。あの芝居、自分はすごく好きでした。余韻の悲しさ含めて、野田さんが日本の戦争を描くときに「人間魚雷・回転」をああいう形で見せてくれたこともそうだし、あの悲しい結末含めて瑛太さんの表現する悲しみがぐっと来た作品でした。今回の物理学者ですが、原作小説と違って結構難しい位置づけだと思います。本来は長男の婚約者を好きになっていて云々などのエピソードがあるわけですが、2時間強の作品でそこまで盛り込まれることも叶わず。どちらかというと、物理学者、そして兄の無実を主張するという部分が強調された話になっていました。
三男・在良は長澤まさみさん。彼女は途中、殺された富太郎の父・兵頭と富太郎を手玉に取る娼婦・グルーシェニカも演じます。この役柄は前回の「BEE」のように長澤まさみさんの魅力全開で、どちらも非常にマッチしていました。在良に関しては、その純粋さも長澤まさみさんの台詞回しがすごく一本筋の通った雰囲気を出していて、良かったです。
富太郎の弁護士が野田秀樹さん、この事件の検事が竹中直人さん、竹中さんは殺された兵頭と二役です。途中の場面転換の際にこの二人は役柄を変えて進行させる必要があるので、このあたりの演出は笑える場面でした。
竹中直人さんは前回の「Q」のときもそうですが、ほんとにリズム感がすごくて、今回のラップですすめる場面もすごくかっこよくて、芸達者と再実感します。
ロシアのウワサスキー夫人を演じた池谷のぶえさんが面白い。いろいろな舞台で拝見することが多いですが、今回の役どころは物語における戦争という場面を意識させる配役。ふざけながら「ロシアの宣戦布告」などを伝え去っていく。こういう狂言回し的な雰囲気を軽やかに演じる人、そうはいないと思うので、すごい俳優さん。今回はとにかく飼っているペットの名前が「ケラリーノ・サンドロヴィッチ」だったことで、自分含めて客席が大爆笑でした。
小松和重さんも常連、今回は兵頭の部下という役どころ、この方もフットワークがいつも軽いので、ストーリー内でいろいろなポジに入ることができてすごいと思います。村岡希美さんも最近野田さんのところに出ますね。声がいいのですよね、あのハイトーンな感じが舞台だと通るし、感情表現がすごく伝わってきて。野田さんは最近はこういう主役以外の俳優さんは固めてくることが多いなあと思います。そのほうが安心なのでしょう。
ストーリーについて
さて、ここからは今回の話について。
正直な感想から言えば、ここまでわかりやすくしたのか!と驚いています。今までいろいろな現実社会での問題点を戯曲の世界に盛り込みながら、言葉遊びと絡めて、その問題点に焦点を当ててきた野田さんが、過去イチと言ってもいいくらいわかりやすく作っていました。カラマーゾフの兄弟をモチーフにした時点で、その小説の結末があるだけに、そこに対してどう原爆を重ねるのか?という思いを持ちながら見ていましたが、正直思った以上にわかりやすくしたという思いです。
ただ展開のわかりやすさとは別に、比喩というか相対的な意匠の部分は、自分はまだくっきりとはなっていないです。
ちなみに「正三角関係」は三兄弟の花火師、物理学者、聖職と同時に、日本とロシアとアメリカの関係性を描いているのが、ウワサスキー夫人の宣戦布告あたりで顕在化します。
ストーリーの展開の中心を「父を殺した長男の裁判」という部分に持っていき、そこに回想やエピソードを盛り込んで進行していく。それも非常にわかりやすく場面展開を続けていくので、ほんとにびっくりしました。野田さんが親切すぎると(笑)。
個人的には「欲望という名のチンチン電車」で笑っていました。元ネタはもちろんの事、そこに女性に対して奔放な富太郎が乗っているという設定が、うまくはまっています。
2時間強、休憩なしで見せたこともよかったと思います。緊張感や結末までの落差を一気に感じさせることができたので。
観劇後の解釈というか、思ったこと
今回、花火との対比として出てきた原爆というモチーフが、うまく活きたのか?は個人的に疑問を持っています。
富太郎は犯人ではないが、一人の命の重さへの犯罪と人が下す判決、それと人が意図的に長崎に原爆を落として、多数の人が死ぬが無罪であるという重なりとして描いたのであれば、それはそれでと思うが、だとしたら原爆という部分にもっと焦点が当たる、つまり次男・威蕃の新型爆弾開発に対して、もっと焦点があたっていくべきかなと。戦争を終わらせるにはこれしかないという表現は在るけど、そこに三男・在良の聖職者としての思想をもっと強く押し出しても良かったかなと。
そうすると三兄弟の正三角関係もより浮き彫りになった気はする。
話の流れが、その人の死という部分より、どちらかというとモチーフの小説にある父殺しという犯罪に寄った裁判中心の構成だけに、原爆投下という愚かさへの入り込みがやや粗いかなという印象は持ちました。
個人的な感覚としては、富太郎が「犯行時のその瞬間のことを覚えていない」という主張を繰り返す。このことは結局、兵頭が殺されるときに持っていた箱がなにか?ということになり、その中身がカラだったことから「空虚=無」という意味で、無神論というこの小説のモチーフの一つにつなげた意味もあったのか?と考えたりもしています。
富太郎自身は「花火師」としての自分の価値や生き様にこだわっている。それが母が死んでから、花火を作らなくなり、強欲となった父・兵頭への思いの裏返しとも取れる。
花火が作れなくなった自分、自身の価値が確かめられない、そんな自分が身請けしてまで勝ち取りたかった女性、そしてその女性が父のものになろうとしていた。自分の価値がさらに否定されようとしている。富太郎自身は空を見上げて花火が上がったそのときに世界の幸せを思い、自身が花火師になることを思う。火薬、打ち上げ花火が原爆というモチーフと重なることで、一瞬の煌めきと儚さという連想にも繋がっていた。
花火と爆弾という打ち上げるものと、落とすもの、この表裏一体が現実世界を大きく変えるという意味合いを感じています。
しかし結果として富太郎は花火を打ち上げることはできないし、原爆も作ることができない。
希望がない空には花火が打ち上げられなかった。
そして希望のない代わりに、見上げた空には無慈悲な神の所業が降りてきたとでもいうべきでしょうか。
個人的にはこの花火と原爆という対比そのものよりも、神など存在せず、ただ人の行為によってあっさりと死が訪れるという部分が印象付けられたと思っています。
このあたりは弟・在良がいた教会の高僧が亡くなったときに「どんな奇跡を起こしてくれるのか?」という周りの期待に対して、死体が悪臭を放つ(ドストエフスキーの小説にも出てきますが)ことで、神であったり奇跡というものへの疑念が生まれることも、つなげて描いたかな?とか思ったりしました。実際、威蕃の「アメリカはまだ完成させていないはず」という言葉や、空襲警報で避難したときに小松和重さんの「長崎には今まで同様に爆撃がない」と言うセリフや、警報解除の後に原爆投下とか現実の非情さが演出されていました。
富太郎の鬱積の部分は、松本潤さんは非常にうまく演じていたと思います。そういう自暴自棄な感じ、舞台上から伝わってきます。どこかに常にイラつきの感情がセリフの抑揚や所作に出ていて、さすが表現者だなと思います。
ただ原作に在るようななにかの犠牲となる精神みたいな部分は、正直あまり強くなかった気はしますが、どうなのでしょう?
原爆による死者は、何かの犠牲のための代償というには、あまりにも非業なので、そういう受け止め方は難しいなあと感じたので。
富太郎は自身のため、死んだ母のためという部分はあったでしょうが、それ以上に父への愛憎という部分が強く出ていたと思います。
犯人が誰か?という部分も原作のように威蕃が主張する場面もありますが、それでも最終弁論含めて、わりとすんなり有罪になったなあと。まあそのあたりは原作準拠だから、重さを出す必要がなかったのかもしれませんね。
無神論とか無常観とかそういうものに持って行きたかったのか?という部分は、戯曲をじっくり読みたいなという思いです。
原爆が落ちたあとの富太郎の独白は、重かったですね。だからこそ、原爆というモチーフが、結局は死と人の命の重さの対比であると感じさせる道具立てで終わるのは印象深いが、もっと業みたいな部分に入り込んでほしかったという自分の勝手な思いです。
フェイクスピアという作品で日航機墜落事故を扱った衝撃も大きかったし、「兎、波を走る」で北朝鮮の拉致問題を描いたときもそうだけど、もっとうまくモチーフとなる素材に対して、盛り込みたい問題提起がハマっていた気がするのです。だから原爆というよりは、前述したように人の死の重さの話なんでしょう。それだけに次男・威蕃の爆弾開発にもっと焦点が当たって、新型爆弾を作って、大量殺人が起きても戦争が終わることを考える「人の業」みたいな部分が出ても良かったかなと。富太郎には躊躇が出ていますが、それは死に対する責任の重さの話であって、人を殺すという業の部分ではなかったから。
野田さんがチラシに書いた「入口と出口が違う」は自分の中での事象に対する受け止め方の変化なのか?とか考えたりしたけど、今ひとつモヤッとしています。
もう一つ、途中に出てくる在良の恋愛感情についても、あまり活かされていないのですよね。これはちょっともったいないというか、掘り下げても良かった気はしています。
長澤まさみさんが二役を演じることで、聖職者と性職者の両方を見せる部分は、長澤さんの凄さだと。「THE BEE」のときの演技の凄みもそうですが、奔放という演技を、どう舞台上で見せるのか?で長澤さんの上手さが際立っています。この二役の意図はやっぱり花火と原爆同様に、表裏一体という部分としての演出かな?と思っています。
今回は松本潤さんの富太郎というキャラクターにうねりを任せている感じが強くて、野田さんの作る作品としては非常に珍しいと感じます。
今までは「運命」や「現実」という「流れ」に巻き込まれたり、その不条理に抗う構成が多かったと思いますが、この「正三角関係」は方向性が変わったなあ、、、と感じて見ていました。
観た当日の感想なので、すみません、あんまりうまくまとまっていない気がします。
気になることが思い出して出てきたら、追記します。
追記
一人の死への責任と、多数の死への無責任という部分は、他の方観劇されたの感想にも多く出ていていろいろと楽しく拝見させていただきました。自分に新しく気づくことも多く、やはりこういう体験を通じて感覚が広がることはありがたいことです。
グルーシェニカに惚れる、取り合うという業と戦争も「領土と人」の違いこそあれ、メタファーという部分はあるとも言えるのかな?
取り合う、殺すという点においては重なって、そこに人の本能の部分だったりと同時に戦争は政治でもあるから、そこを含めて描かれているか?は、なかなか難しい作りだったかも。
少なくとも政治という部分は、三カ国の対立という部分はあっても、枠組みでしかなかった。
三兄弟の対比という点では、冒頭のセリフでうまく表現されているので、こちらはすごく観客にも伝わりやすい「正三角関係」だったと思っています。
きれいにまとまらない内容で、思いついて書きなぐってしまいました。
やはり戯曲を読んでまた考えよう。