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ドラクエ7の小説を読みきれなかった話

僕は幼少の頃、父母姉の家族4人で愛知県に住んでいたことがある。その頃のうっすらとした記憶の一つに、「ゲームの日」みたいなものがあったような気がする。普段は客間になっている和室にテレビがあって、父親が帰ってこない日にそこに晩御飯を持って行って、食べながらゲームをするのだ。もちろん事前に母のお許しが必要だ。僕の母は特別教育熱心というわけではなかったが、礼儀や作法はちゃんとさせたがる人だったので、今思えば中々に思い切った教育である。

僕はその「ゲームの日」が好きだった。まだ幼かったので母親と姉がやっていたドラクエ7やファイナルファンタジーはプレイできなかったが、見ているだけで面白かった。ストーリーが分からなくても、いつもと違う夕食に家族と一緒に盛り上がっているだけで特別感があった。
それから少し経ち小学生低学年になった頃、勇気を出して母親に「僕もドラクエ7をやりたい」と言ったことを覚えている。何故か僕にはまだ早い大人のゲームなのだという印象があったため、やけに緊張して言ったような記憶がある。母は笑ってやらせてくれた。
それから僕にとってRPGといえばドラクエ7だった。よくストーリーが暗いとかシリーズで7だけ主人公が勇者じゃないとか言われるが、過去と現在を行き来できるのは新鮮だったし、集めた石板を地下遺跡で台座に嵌めるときはワクワクした。

話は変わるが僕が通っていた小学校に絵が上手い子がいた。その子は市川さんと言って、穏やかで優しい少女だった。ノートにいろんなイラストを書いていて、お願いすると好きなキャラクターの絵を描いてくれることがあった。僕もスライムを描いてもらった記憶がある。(他にも描いてもらった気がするのだが、思い出せない)

その市川さんがドラクエ7の小説を持っていた。当時僕はノベライズというものを知らなかったので、驚いた。もう一度あの体験ができるかもしれない、もしかしたら違うケースが描かれているかもしれない、と思って、彼女に小説を貸してくれないかとお願いした。こうして思い出すと、僕は市川さんにお願いしてばかりだな。それでも彼女は快諾してくれた。

昼夜を忘れてその小説を読んだ。ゲームでは自由に設定できた主人公の名前が予め決まっていることや、パッケージでしか知らないキャラクターの立ち姿、生活などに衝撃を受けた。何より、終わったと思っていたドラクエ7の世界がまだ続いている。登場人物たちがまだ生きている。それが嬉しかった。あと、少し怖かった。

創作はどれだけハマっても完結してしまえば文字通り終わり。どれだけ生き生きと描かれたキャラクターであっても、読み終われば終わり。時間が止まったかのようにそのあとは良しも悪しもない。そのあと、はない。そして僕たちは自分が立ち尽くしていることに気付く。そうしたらもう現実に目を向けなければならない。自分と創作という対比が生まれてしまって、さっきのは創作だと気づくはめになる。もう主観と創作をごちゃ混ぜにした眩しい世界には戻れない。そうしてすこしずつ日常が侵食してきて、僕たちは創作を忘れていく。昔の友達のことを忘れていくように、自然に過去の記憶として、片をつける。

だから僕は小説を最後まで読み切ることができなかった。最終巻の終わり近くまで読んだような気もするが、読み切らなかった。
今でもその小説は読み切らないままだ。それは当時ほどドラクエ7に興味がなくなってしまったからでもあるけれど、タイミングを逃してしまったという面が大きい。それは本当に勿体無いことだと思う。全ての創作物には出会うべき時があり、それを逃してしまえばそこにあったかもしれない、あの鮮やかな世界には行けない。だから今となっては余計に読めない。もう読むこともないだろう。