【最終日】9月30日 両親の日
(いつもより少し長めです※2400字程度)
(本日で「365日記念日小説」は最終日となります)
男はメガネを手に取ると、掛けることはせずそっと机に置いた。
いつも自分が使っている丸いフレームのそれではなく、アンティークにしては珍しい丸みを帯びた四角いシルバーのフレームである。
それは男が父から受け継いだものであり、今でも大切にしまっていた。
「珈琲、入れましょうか」
妻が声を掛けてくれる。男は優しく微笑み、ありがとうと頼む。
喫茶店を営む夫婦は普段は男が珈琲を淹れるのだが、休日となると男はその手を休めるのだった。珈琲屋の店主だって特別な日くらい人に淹れてもらった珈琲が飲みたくなるのだ、といつだったか冗談めかして言っていた。
今日は、まさにそうだった。
机に置いたメガネを手に取る。
普段使用していない割にほこりも汚れもついていないのは、男が毎日手入れをしているからである。店内に飾ってある他のアンティークメガネ同様、丁寧に優しくクロスで磨いているのだ。指で触れると、まるで昨日も今日も掛けているメガネのようになめらかである。その上で年季の感じられるフレームの小さな凹凸が愛おしい。
そっと掛ける。
妻が淹れてくれた珈琲がトン、と机の上に置かれ、遅れるようにして香りが鼻孔をくすぐる。
「ありがとう」
男は再びほほえみ、そうして一口珈琲を飲む。
メガネの中で目の前が虹色のように輝いた。ふわふわと色が浮かぶ。懐かしいような心地よいその視界には男の両親が笑って見えるのだった。
「”何でも見ること”と”何でも見えること”は違うんだよ」
あのころ、父は確かにそう言っていた。
「父さんのメガネは確かに何でもよく見えるけれど、だからと言って父さんは何でも全てを見るわけではない」
まだ当時5歳の男には父が一体なにを言っているのか、よく分からなかった。
「じゃあ、父さんはなにを見ているの」
見えるけれど見ないと言う父に、男は問うた。
「自分が見たいものと、自分にとって見るべきものを見るんだよ」
父はそう言って、頭を撫でてくれた。母はそんな2人を見て優しく微笑んでいた。
紛れもなく、これはまさに男が見たいと思う記憶であった。
今、父と母に会いたいと思っていたのだ。
今日は男の75歳の誕生日であり、そして男の両親は75歳で亡くなったのだ。父が倒れ、数ヶ月後に亡くなると、母も追うようにして数ヶ月後に倒れた。
それを思い出し、自分もあのときの両親と同じ歳になったのだとどこか不思議な気持ちになっていた。
自分がこんなに歳を重ねたのだという意識は全くなく、ややもすると30代や40代のあたりでストップしていると思うほどに、年老いた感覚がない。もちろん体に手を当ててみれば皺は増えたし腰も痛む、歩くこともゆっくりになった。けれど考え方や気持ちなど頭の中はなかなか昔と変わることがないのである。
だから、ここからの人生に終わりが見えている感覚もまるでないのだ。あと10年も生きられるだろうか、生きられるとして、では20年ではどうだろう。分からない。分からないのは、生きているかも知れないし、もういなくなるかも知れないと言うこと。
だから、この歳になった今日、男は両親に会いたいと願ったのだ。そう願い、父から譲り受けたメガネを久々に掛けた。
再び視界に虹が広がる。
カラン、コロンと店の扉が開く音がした。
「父さん、ただいま」
息子が帰ってきたのか。男は思わずその場でおかえりと言った。
「ねえ、聞いておきたいことがあるんだ」
そう言って、息子は男の目の前に座った。そこで男は違和感を覚える。けれど構うことなく息子は続けた。
「父さんのメガネさ、じいちゃんが使っていたものだろう。古いものだから所々のシルバーの色具合が違って見える。それはまるでマーブルだ」
男は口を挟みたいと思うも、声が出ず、そのまま聞くしかない。
「だから、店の名前も『マーブル』になったの?」
ああ、やっぱり。男は確信し、メガネの奥で目を閉じた。
息子だと思っていた人物は、昔の自分だった。
そう、両親に聞きそびれたままだったこの店の名前の由来である。
大したことのない質問である。
大したことのない質問だから、いつか聞こうと思ってそのまま時は過ぎていき、結局聞きそびれたままだったのだ。
「荘司、この『マーブル』はね、いろんな人々が様々な人生に出会って、混ざり合うことが出来るようにと願いを込めた店なんだよ。人は1つの人生しか生きられないものだけれど、たとえばこの店に来たときにはその人の知らなかったまた違う人生の1日だけでも味わってもらえることが出来れば、きっと楽しいのではないかと思って色が混ざるマーブル模様から付けたんだ」
これは両親が言ったことではないのかも知れない。
男が考え、男の意識の中でメガネの世界を通じてそれを見せているのかも知れない。
けれど、男にはそれでも十分だった。父はまた続ける。
「確かに荘司の言うように、僕のメガネフレームは古いものだから見方によっては大理石の模様のようにも見えるね、そこからマーブルをとってもいいかもしれない。うん、それも自由だよ。荘司、キミがそう思うのならそれでもいいんだ。決められたモノが自分にとって正しいわけではない。見たいと思うモノを見て、感じたいと思うことを感じればいいんだよ」
父が言い、母は男をそっと抱きしめた。
「あなたが見たい世界を見ればいいのよ。大丈夫。『マーブル』は店主となったあなたをも優しく迎えてくれる喫茶店なのよ」
父もそばから抱きしめてくれた。
「ありがとう」
男は静かに涙を流していた。
今見える父と母が本物かどうかなどどうでも良かった。
男が今見たい父と母であり、それを見たその事実だけが本当なのである。
男はこれからもこの店で珈琲を淹れる。
そしてこの店に来たその人が希望をするならば、その人生とは別の出会いが混ざるよう、拭き上げた大切なメガネを渡すことだろう。男の両親がそうしてきたように。
人生は戻れない。
けれど振り返ることは出来るし、前に進むことも出来る。
そしてこの店に入ったならば、過去でも未来でもないどこか別の場所であなたが望む見たいモノを見ることが出来るのだ。
カラン、コロンと扉が開く。
男の淹れる珈琲が香る。
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【今日の記念日】
9月30日 両親の日
自分の可能性は「無限」であることに気づき、やりたいことを現実にする「夢限」の力を仲間と創り出すことを掲げる「超」∞大学の松永真樹氏が制定。両親への感謝の気持ちをあらわす日として、両親の前で「産んでくれてありがとう」と伝えるイベントなどを行う。日付は9と30を反対から表記すると039となり「お父さん、お母さん(0)、サンキュー(39)」の語呂合わせから。
記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
https://www.kinenbi.gr.jp の許可を得て使用しています。
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本日9月30日をもって、企画「365日記念日小説」は終了となります。
1年間お付き合い頂きました皆様、半年、もしくはラスト1ヶ月、お付き合い頂きました皆様も、ご愛読いただきましてありがとうございました。
10月はお休みを頂き、11月より新たな活動を予定しております。その際にはまたご挨拶をさせていただきます。
本当にありがとうございました。
最大の感謝をこめて。
あにぃより
※この度の企画を快くご承諾くださいました、
一般社団法人 日本記念日協会
加瀬代表理事 殿に心より御礼を申し上げます。
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