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対立や争いが起こるのは、「誰もが正しい」から

今朝、「大谷、前人未到の50ー50達成!」
のニュースが飛び込んできた。
日本の各地では、号外が配られたらしい。
アメリカと日本(おそらくだけかもしれない)では、
どうやら大騒ぎである。

ふと、思う。
80年前は、第二次世界大戦のただ中にあり、
日本では情報統制が敷かれ、
プロパガンダによって殆どの国民にとっては、
「アメリカは憎き敵国」であり、
アメリカ人は「鬼畜」であって、残酷で無慈悲な行いをするもの、
であった。

その憎き敵国アメリカで、日本の若者が大スターになり、
アメリカのヒーローとなっている。

80年前、今日の大谷の姿を誰が想像できただろうか。

日本の意志と才能あふれる若者が、かつては殺し合いを繰り広げた国で、
その才能を燦然と輝かせ、
両国を同時に歓喜の渦に巻き込んでいるというこの光景を。


今の日本にとっては戦争は80年前のこと
(戦争が終わってから、たった80年しか経っていないのだ)
であるけれれど、地球全体に目をやれば、世界は未だ戦争のただ中にある。

ロシアとウクライナの戦争は、終結を迎えるどころか、
双方が進行しあい激しさを増している。

イスラエルとパレスチナも、その争いは留まることを知らず、
日を追うごとに激化する一方だ。

日本のメディアでは殆ど放送されなくなってしまったが、
シリアやアフガニスタンは未だ内戦状態のままである。

他にもこの地球上のありとあらゆるところで、
人同士が殺し合う争いが起こっている。

この互いに憎みあい、
報復が報復を呼ぶ人間同士の殺し合いはいったいいつの時代まで続くのか。

もはや、人間はその生命の源である地球が滅びるまで、
争いを止めることはないのではないか、、、

誰もが自分の中にある「正義」を信じ、それを護るための戦っているのだ。単に、相手が自分とは異なる「正義」を持っているというだけで、
それは滅するに値する憎き敵と化してしまうのか、、、

自分の「正義」を通すためには、
自分と異なる「正義」を持つものを駆逐せねばならないのか、、、

自分と異なる「正義」を持つものは、
自分が生きている世界から「排除」しなければならないのか、、、


翻って日本の組織の中に目をやれば、
それぞれがそれぞれの立場で自分の「正しさを主張しあい、
そこかしこで対立や争いが起こっている。

肉体的に殺し合うような武器を持っての戦いこそなされてはいないが、
ハラスメントと言われるような
「言葉」「権力」「地位」「立場」「ジェンダー」などによる
精神的に殺し合う対立や争いは、
多くの組織の中のそこかしこで起こっている。

それぞれが自分の「正義」をもっている
一人ひとりが持っている「正義」は、
自分自身がこれまでを生き抜いてきた証だ。

故に、自分の中の「正しさ」や「正義」は、
自分にとってはかけがえのない大切なもの
であり、
それは、いわば自分自身の存在を示す「アイデンティティ」だと言える。

誰もが正しいし、誰も間違っていないのだ。
誰もが違う経験をし、違った人生を歩み、
その過程の中で自分自身の「正しさ」や「正義」を育みながら生きている。

自分以外、誰一人として自分と全く同じ体験をした人間は
この世に存在しないし、
ましてや、自分と全く同じように感じ、全く同じ感情を持ち、
全く同じ意味づけをする人間は存在しえない。

人は皆、十人十色の「正しさ」や「正義」を持って生きている

だからそれぞれの「正しさ」や「正義」が
違っているのは当たり前のことなのに、
自分とは異なる「正しさ」や「正義」を
自分が持つ「正しさ」や「正義」に塗り替えようとして争いが起こる。

これでは、自分以外の人間がこの世から全て排除されるまで、
争いは終わらないことになる。

、、、だが、一方で人は一人では生きていかれない生物でもあるのだけれど。。。


一人ひとりが、自分とは異なる他者の「正しさ」や「正義」に、
ほんの少しだけ寄り添うことができるだけで、
この世から争いは減っていくのではないだろうか。。。

他者の「正しさ」や「正義」に寄り添うことは、
決して自分自身の中にある「正しさ」や「正義」を変えることでも、
手放すことでもない。

自分自身の中にある「正しさ」や「正義」は、何人も奪うことはできない。

私が私であることを、
私が私として生きることを、
誰も奪うことはできないのだから。


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