ブリキの星は、重いか軽いか
●真昼の決闘
あの男が、町に帰ってくる。5年前に絞首台送りにした、あの男が。「俺を絞首刑には出来ないさ。戻って、おまえを必ず殺す」(You never hang me. I’ll come back. I’ll kill you.)という自らの言葉通りに。
男が刻一刻と汽車で町へと近づいている間、何も知らない保安官ウィル・ケーンとエイミー・ファウラーは結婚式を挙げていた。ウィルは、フランク・ミラーとその仲間たちによって荒らされていた町に平和をもたらした功労者だ。5年前にフランク・ミラーを裁判にかけ刑務所に送ったことで、町は女性や子どもも安心して歩ける場所になった。ウィルの保安官の仕事は今日で終わりだ。明日には新任保安官が町にやって来て、ウィルのかわりに平和を守ってくれるだろう。ウィルは保安官バッジを返却し、エイミーと共に新天地へ旅立つのだ。しかし祝福されて幸せいっぱいの2人のもとへ、衝撃的な知らせが入る――1週間前にフランク・ミラーは減刑・釈放されていた、彼は正午の汽車で町に到着する予定、彼の弟と仲間の合計3人がフランクの帰還を駅で待っている、彼らはウィルに復讐しに来るだろう――と。
周囲の人は「早く町を出るように」と言ってウィルとエイミーを馬車で送り出すが、ウィルは「誰にも背を向けたことなどない」(I’ve never run from anybody before.)と町に残る決断をする。頑なに保安官の職務を全うしようとするウィルに対して、妻のエイミーもしっかり自分の主張を言動で示す。「英雄になる必要はないのよ」(Don’t try to be a hero. You don’t have to be a hero, not for me.)と一緒に逃げるよう説得するが、ウィルの決心が固いとわかれば1人で町を出ていこうとする。
ウィル「ここは私の町だ。友人もいる。仲間で力を合わせれば対抗できるさ」(This is my town. I’ve got friends here. I’ll swear on bunch of special deputies. With a posse behind me, maybe there won’t be any trouble.)
エイミー「うまくいかないわ」(You know there'll be trouble.)
冷たい態度に思えるが、彼女は父と兄を殺害され、それをきっかけにクエーカー教徒に改宗した過去があった。いかに暴力が理不尽に人を襲うか、いかに「正義」が脆く崩れ去るかを、彼女はよく知っているのだ。その後の展開を見れば、エイミーの言葉は恐ろしいほど的を射ていた。
フランクが到着するまでに、10人程の有志を募って保安官補佐に任命し自警団を結成しようとするウィル。その過程で人間の複雑な心理が入り乱れる。早々に町から逃げ出す判事、危機に乗じて取引を持ち掛ける保安官補、協力を要請しに行っても居留守を使う友人――。酒場で、教会で、ウィルは呼びかけ続けるが、志願者に渡そうとしていたバッジを、誇りを持ってつけようとする者はいない。一度は志願していた者でも形勢不利と見るやバッジを返却する有様だ。結婚式で幸せそうにしていたウィルは、瞬く間に孤独となる。
主人公のウィルを好きな人もいれば、嫌う人もいる。憎からず思っていても協力は出来ないと考える人もいる。全ての人から無条件に愛されている人間などいない。困難な時にこそ、その事実は一層浮き彫りになっていく。特に興味深いのが「ミラーのいた頃のほうが商売繁盛していた」という意見と、「北部はこの町に投資する価値があるかどうか注目しているはず。撃ち合いがあれば野蛮で未開な町だと思われる」という意見だ。私情だけでなく、金や商売、町としての体面など、様々な思惑がぶつかり合う。
やがて時計の針は、無慈悲にも正午を告げる。酒場で、駅で、家で、教会で、人々はその時を待つ。汽笛が鳴り、あの男が町に戻ってくる時を。そして町に銃声が響き渡る。保安官のバッジ――真昼の太陽の下で鈍く光るブリキの星は、何と重いことか、軽いことか。
●備考
・動物が死ぬシーンなし。撃ち合いはあるが、白黒映像なので描写は控え目に見える。
・この映画は「西部を舞台にした心理劇」としての印象が強い。西部劇の要素を抜いて、別の時代、別の場所に置き換えても通用する普遍性がある。主人公は、従来の西部劇の定型である無敵のアウトローでもなく、助け合う仲間がいるわけでもない。信念があるとはいえ、自らの心も揺らいで時に弱気になる。西部劇における、このような主人公の描写には公開当時から賛否両論があった。特にジョン・ウェインは主人公が保安官バッジを捨てるシーンを観て激怒したという【芦原伸『西部劇を読む事典 完全保存版』(天夢人、2017)、214頁)】。
世界に向けて何かを問えば、肯定されることも否定されることもある。だが名作が名作たる所以は、オマージュであれアンチテーゼであれ、新たな作品を生み出す原動力を人々に与えることだ。「真昼の決闘」の影響を受けて、ジョン・ウェイン主演の「リオ・ブラボー」(1959)や、クリント・イーストウッド監督兼主演の「荒野のストレンジャー」(1972)などが誕生した。
・物語は午前10:30過ぎから始まり、12:00過ぎに終わる。映画自体の上映時間も85分で劇中時間とほぼ同じ。所々で時計が映し出されるので、テレビドラマ「24 -TWENTY FOUR-」のように、主人公と一緒に時間の流れを感じながら鑑賞できる。
・ウィル・ケーンを演じたゲイリー・クーパーは本作でアカデミー賞及びゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞した。ゲイリー・クーパーの他作品→「ヴェラクルス」(1954)
・エイミーの信仰している宗教であるクエーカー教(正式にはキリスト友会、もしくはフレンド派)とは、キリスト教プロテスタントの一派。イギリス発祥の宗教だが本国で迫害を受け、現在のペンシルベニアを中心に、多くのクエーカー教徒がアメリカへ移住していた。絶対的な平和主義、平等主義が特徴として知られている。これはクエーカー教徒の一人の女性が信条と現実の間で揺れ動き、一つの決断を下す物語でもある。エイミー・ファウラーを演じたのは、後にモナコ公妃となるグレース・ケリー。
・原作はジョン・W・カニンガムの『ブリキの星』(The Tin Star)というウエスタン小説だが、日本で入手しやすい本ではなく未読。ちなみにヘンリー・フォンダ主演のThe Tin Star(邦題:「胸に輝く星」、1957)という西部劇があるが本作とは全く別物。
●ひとりごと
似たような邦題の西部劇があったような……→おそらく、それは「白昼の決闘」(1946)
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?