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なんでもない日
こんばんは。昨日宣言致しました、収納スペース拡張のための「クローゼット断捨離作戦」は手付かずのまま、丸1日が経ちました。
少し前の自分なら、自己嫌悪の渦に飲み込まれ、駄目な奴だと散々罵ったことでしょう。
しかし、現在の私はと言えば、「それでいいのだ」と諦めをとうに通り越し、開き直ってすらいます。
さあ、次の断捨離チャレンジはいつになるのでしょう。(もはややる気を感じない)
さて、本日は主人がお休みの日でしたので、悪天候の中少しだけお散歩に出掛けました。
BOOKOFFで、貴志祐介の悪の教典の上下巻を購入しました。
これは以前に私が読んだ小説なのですが、主人も貴志祐介にどハマりし、一度は手放したものの、もう一度我が家に迎えることとなりました。
悪の教典は、私個人の感想としては、本書を読む前も読んだ後も、映画を観ることは控えた方が後味がとても良く、楽しめる作品だと思います。(訳:原作の何もかもを全て打ち砕いたかのように、後味の悪い映画でした。)
やはり、日本映画ならではの予算の少なさなんかを、出演者の知名度に頼ったり、"お馴染みの"キャスティングで劇場動員数を一定数確保したいかのような、誤魔化している様な欺かれている様な。
映画ですら、そんな広告感丸出しな様子を感じてしまうのです。(あくまで個人的な感想です。)
話は変わりますが、数年前に事務員をしていた頃、私自身も小説を書いてみたいと思い、何かのコンクールに応募しようとしたことがあります。
夏のお盆の時期で、電話もメールも1日に1.2件しかないというとても退屈な1週間、会社から貸与されたパソコンで、細々と原稿を書いてみたのです。
しかし、いざ書こうとすると、書きたいテーマに関しては特に、専門家の様に知識や経験を要するものなのだということをひしひしと感じました。
たとえ、特定の分野に関してとても詳しかったり、好きなことには前のめりに努力できる姿勢があったとしても、やはり日々を「小説の材料探し」として観察、体験、探究しなければ、「物を書くのが好き」程度では成し得ない、小説家になるにはプロフェッショナルな意識が何よりも必要なのだなあ、と当然の事をしみじみ思うのでした。
それでも、好きこそ物の上手なれというではありませんか。
たとえそれが自分に向いてないと感じても、好きであれば学ぶことを惜しみませんし、吸収も早いものです。
中途半端に様々なことに手を出し、しかも途中で投げ出してきた私が言えたことではありませんが、これを機に、今まで躊躇い、一歩踏み出せずにいた物事に手をつけてみるのはいかがでしょうか。(まるで悪の世界へ誘っているようですね・・・)
始めてみたら、案外・・・ということもあります。
ということで、「小説を書く」。これをやりたいことリストに、本日迎えることとします。
それでは、さようなら。