解放されたお話
人は、他人と比べ自分が優位であることに安心・快感・優越感を抱くものです。
それは、幼少期から始まる「競争」により、常に順位をつけられる環境下で成長していくからであって、至極当然なことなのです。
そしてこれは、「社会」に属している限り、逃れようのない呪縛とも思っています。
TVやSNS
タイトルにもありますように、私は現在、「社会」から遠く離れた場所に生息しているため、「競争」などというものとはかけ離れ、なんのしがらみもなく、自由気ままに生きております。
それは、一家の大黒柱となって我が家に潤いをもたらしてくださる、偉大な旦那様のおかげであることは言うまでもありません。
そのおかげでこうして、大の大人になってまで、資格勉強などとほざきながらも毎日座り心地の良いソファーに身体を預け、暖かいココアを飲みながら編み物をしたり、猫と戯れたりできるのですから。
しかし、それだけでは真に解放されたというには不完全です。
なぜなら、スマホという、人間の脳に深く侵食し、大きく巣食っている脳みそ破壊装置が手元にあるからです。
基本的に、スマホやTVなどのメディアは、私たちに「見せたい情報」を見せてきます。
広告はその最たるものです。TVは本体の代金さえ支払えば、無料で観ることができますが、そのTVで企業等が私たち視聴者に見てもらいたいものを放送して、あれこれ購入させることによってお金を得ているのです。
私は、広告を制作する仕事をしていたことがありますが、ほとんどが茶番です。秘密保持契約を結んでいるため、あまりお話はできませんが、二度としたくない、いや、一度もしたくなかった仕事です。
この仕事をしたとこによって、私の生活が150度ほど変わってしまいました。(このお話はまた追って投稿します。)
ーー
少し感情的になってしまいましたが、私が解放された理由をお話ししたいと思います。笑
①TVを見ない
これは私が小学生の頃、家の方針で決まったことで、たまに見ることはあっても、人生のほとんど見ることはありませんでした。
社会人になり一人暮らしを始めた頃は、しんとしたもの寂しい空気に耐えきれずに、12年ぶりにTVをつけ放しにしたりもしましたが、結局はAmazon primeで某国民的アニメをラジオのようにしてかけたり、音楽を流すことで落ち着きました。
JPOPやKPOPもいいですが、やはりクラシックピアノには、尖らせた神経を落ち着かせる効果があるとつくづく感じます。
②SNSをやめる
社労士の勉強を始めてから半年ほど経ったある頃、SNSを見るとどうしようもなく自分が不幸な人間に思えてくること、それからSNSを一通り閲覧する時間が、何も生み出さないことに気づき、躊躇なくアプリを削除したことがきっかけです。
SNSは、自己顕示欲や承認欲求をいとも簡単に満たしてくれますが、それと同時にそれらをどんどん増幅させていきます。
大学生の頃の話を少しします。
ハイブランドのバッグも持ち、良い洋服に身を包み、背伸びしないととても行く気になれないようなレストランに赴いては、運ばれてくるお料理一皿一皿ご丁寧に写真を撮り、それをSNSに投稿しては「いいね」やコメントを見て心を満たす。
そして、会話もそこそこに終始スマホを片手に——そんな友達とする食事が美味しい訳もなく、「何の時間だったの?」と自問自答するものの、誘いを断れない自分は同類でした。
裏舞台ではこのような、まさに「味気ない」ひとときを過ごしている訳ですが、SNS上の投稿として見ると、#優雅なディナー#高級レストラン#お金持ち#おしゃれで素敵 として映るのです。映えですね。
女性なら特に共感していただけると思いますが、SNSは潜在意識に「競争」を仕掛けてきているのです。
みんなより幸せであることを見せたいし見てもらいたい。そんな想いは、一番良い瞬間に一番良い写真として記録され、今日も私たち劣等感に悩む乙女に悪夢を見せるのです・・・。
SNSをやめてから
私自身はあまり投稿する方ではありませんでしたが、SNSをやめてからは、今まではストーリーに投稿していたような小さな幸せも、記録として残しておきたいイベント事も、スマホの写真フォルダに残すだけで充分だ、と思うようになりました。
むしろ、この幸せな気持ちを、他者に介入されることなく存分に堪能できる気さえするのです。邪念がないだけで、こんなにも楽しい一瞬、可笑しい一瞬を感じることができるのです。
おわりに
他人と同じ土俵にいては、いつまでも解放されることはありません。
自分は自分、と一線を引くことで、いい意味で「社会」から隔離され、解放された自分を手に入れることができます。
もし悩まれている方がいたら、一度SNSやTVから離れてみて、雨の音に耳を傾けたり、雲の落とす影の動きを眺めて、風を感じる時間を作ってみると、和やかな心を取り戻せるかもしれません。
それでは、何処かの乙女が救われることを願いながら、さようなら。
(さっき、さらっと自分のことを乙女と言ってしまいましたが、心はいつまでも乙女なのです。申し訳ありません。)