『冷たい熱帯魚』を観て
【初回感想】(2024/06/17)
正直よくわからなかった。
整理ができていないと言った方が正しいだろうか。
ただ鑑賞後に残ったのは、”鮮烈な赤”の映像だ。
余韻などではない。あの”赤”が今もなお眼前に迫ってくる。
この感覚を元に文章を綴ろうと思う。
今思えば、この作品の中で特に鮮やかな色をしている要素は主に3つ。
熱帯魚
女性陣(タエコ、ミツコ、アイ)の服装
血
"熱帯魚"自体はあまり作品内でフィーチャーされていないようだった。
意図的に描写されたのは、『村田の事務所でのタエコと村田の会話』、『ミツコがピラニア(?)へ給餌』と『互いの店で熱帯魚を見せ合う村田と社本』のシーンくらいだろう。どれも序盤ではあるが、それぞれキーとなる3つと関連していると考える。
[1] 熱帯魚
=『互いの店で熱帯魚を見せ合う村田と社本』
ここではお互いの熱帯魚への"愛情"を表している。
社本は、謙遜しつつも優しさと思いやりを持って接する。一方村田は、アイコンとして買収し、時には人を騙すための餌(駒)としても扱う。
つまり各々の女性への接し方と共通する。
[2] 女性陣(タエコ、ミツコ、アイ)の服装
=『村田の事務所でのタエコと村田の会話』
村田曰く、「熱帯魚が美しい理由は、その自身の美しさを己で理解しているから」とある。
愛を知るも"女"としての未練を捨てきれないタエコ、愛を扱い存分に"女"を生きるアイ、未だ"女"を理解しきれず愛に飢えるミツコ。
これらを比較する限り、「女性陣の服装・振る舞い=己の美しさへの理解」となり得る。
[3] 血
=『ミツコがピラニア(?)へ給餌』
ここは作中で初めて血が鮮明に描かれるシーンだ。
食肉魚が、オレンジ色の魚を噛み砕く。それを見つめて微笑むミツコ。それを目の当たりにする社本。
おそらくここから社本は自身の暴力性を自覚しだすのかも知れない。
[生と暴力、愛]
社本家は各々が異なった形で愛を確認し、蟠りを発散する。
社本:言動(性を伴う行為、言葉)
タエコ:他人から正しく求められること
ミツコ:安寧の地
タエコへ暴力を振るったミツコ。その理由はタエコが宿木としていたタバコだった。己が本来安心できるはずであった場所を汚されたと感じたミツコは、暴力によって発散する。そして、居場所を安い男に預け、連れ出しの誘いには必ず乗る。(家庭の時間である"食事"中に誘いが来るのもその描写をしたいがため?)
一方タエコは、序盤の社本の誘いを断り、村田に身体を許す。これは単なる行為でなく、「己を理解してくれる(とタエコが感じる)」ことが重要であることを示している。
口寂しくなり、外で隠れてタバコを吸うタエコとそれを社本が黙認する場面。それはこれから起こることを想起させるシーンである。
[脱却]
アイに村田の処理を任せている間、後戻りができないことを察した社本は、これまでの己の脱却を模索する。
ミツコを連れ戻し、タエコに食事の準備をさせる。あくまで"家庭の時間"のため、ミツコには普段着に着替えさせる。結果、その時間を軽んじたミツコを気絶させ、村田と関係を持ったタエコを詰問し、犯す。
村田によって崩壊した家庭はもう取り返しがつかず、暴力(村田とアイの完全な殺害)による発散とその償いとしての通報によって新たな脱却を試みる。
結果殺害には成功、しかしその実益のなさによる虚しさにより凶器を持ったまま放心状態となる。
[ラストシーン]
警察により連行されたタエコとミツコを前にし、本来であれば再生の可能性が垣間見えるはず。ただ冷静さを欠いてしまっていた社本はタエコを殺害し、ミツコに言葉ばかりの愛を残し、自死を選択する。
この書き方だと意図せずタエコを殺したように見えるが、まだまとまっていない。少なくとも根底にある殺意はゼロではなかったように思う。
またミツコを殺さなかった理由は、"愛"以外の表現に思い至っていない。
[まとめ]
この作品において"血"とは、極限の"生"の象徴ではなかろうか。この期に及んで視界にこべりつく緋色の情景は、その体温を密に孕んでいる。解体される死体を前に、究極の生と向き合うことができなかった社本は、己の情念と向き合うことになる。結果誰も救われない展開となったが、その結末は初めから決まっていたごく自然なことである。ミツコには酷な世界ではあるが、生と向き合う機会を身をもって与えた父親に対して、どのような返答をしていくのか。これはミツコを視聴者と見立てた場合に、我々自身にも投げかけられている。
『冷たい熱帯魚』とは、生という実体を持たないまま生きる選択をし続けるミツコ(視聴者)を意味するのかも知れない。やや強引ではあるが、今回はこのように結論づけよう。
また本来であれば、フロイトによる「エロスとタナトス」辺りを予習してから臨むと理解が深まったかも知れない。気が向けば学んでみようと思う。