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ブッダの遺骨 仏舎利の行方 3

■1898年1月 ウィリアム・ペッペはヴィンセント・スミスと Dr Führerに向けてある古代文字の解読を依頼します。この解析依頼と分析がこの遺物の主を特定する大きな手掛かりとなったのです。

(②続き)それは出土した5つの骨壷の中の一つに書かれた古代文字でした。

解析依頼の古代文字

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ウィリアム・ペッペは5つある骨壷のうち、古代文字が書かれてあり中に遺灰が含まれていた壺を取り出しました。ヴィンセント・スミスと Dr Führerに骨壷に書いてある文字を目視で紙に書き写し手紙を送ります。


ウィリアム・ペッペが書き写した古代文字

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ヴィンセント・スミス、Dr Führerらの解析の結果、

・この碑文の文字(ブラーフミー文字)と言葉(パーリ語)は紀元前3世紀ころのもので、ルンビニで出土したアショーカ王の石柱と同じ文字が掛かれている(ヴィンセント・スミス)

・この碑文の中身はブッダそのものと思われる、銘記されている言葉の最初に”Sarīra =身(Body)とある(ヴィンセント・スミス)

・Bhudsa Bhagavaton はブッダにしか使わない呼び名である。(Dr Führer)

翻訳の確定 何度目かのやり取りの結果、翻訳が確定しました(ヴィンセント・スミス)

Yam salilanidhane Budhassa Bhagavato
This (is) in the relic receptacle (of the) Buddha (blessed)
Sakiyanam sukittibhatinam subhginikanam
Of the Sakyas of the brothers (noble) of the sisters’ people
soputta [m] dalanam.
With the sons [ - ] portion (votive offering)


■英訳 This is the offering made of the noble brotherhood of the Sakyas, with their sons’ sons & sisters’ sons

■日本語訳 これは釈迦族のブッダ・世尊の遺骨の壺*であって、名誉ある兄弟並びに姉妹・祭司たちの(奉祀せるもの)である

AIでの訳も下記使ってみました

「Yam salilanidhane Budhassa Bhagavato」
これは仏陀の遺骨の箱です(ものです)

「Sakiyanam sukittibhatinam subhginikanam」
これは、シャーキャ族の兄弟(高貴な者たち)および姉妹たちの(家族の)ものです

「soputta [m] dalanam」
そして、善い伴侶を持つ(ものです)

 私はこの一文 Budhassa (ブッダ)、Bhagavato(バカワトー)を読んでぐっときてしまった。Bhagavatoは普段耳にするお経に良く出てくるお釈迦様の呼び名だ、Dr Führer も解説しているが、この呼び名はお釈迦様の以外の人は指さない言葉だ。普段、我々が唱えているお経のVandana(礼拝)を見てみよう。

Vandana (礼拝)**

Namo Tassa Bhagavato Arahato Samma Sambuddhassa.

ナモータサ・バガワトー・アラハト・サンマーサ・ブッダサ(三回)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に私は敬拝いたします(三回)

Bhagavato = 世尊(すべての福徳を備えた方)

Arahato = 阿羅漢(一切の煩悩を滅人し、神々・人間の尊敬、供養を受けるに値する方)

Samma sambuddhassa = 正自覚者(完全たる悟りを最初に覚って、その悟りへの道を他に教えられる方)

これまでのまとめと考察

 紀元前525年頃の出来事を書かれた記録(お経)の大般涅槃経によるとお釈迦様の葬儀後の仏舎利は8分割されストゥーパに祀られた、その後200年後にアショーカ王によって8つのストゥーパのうち7つが開封され8万4千(沢山)に分割されたが、その後1400年間の間に歴史に埋もれ仏教はインドでは消滅してしまう。1898年にイギリス人技師ウィリアム・ペッペによりPiprahwa (パイプラハワ)遺跡が発掘され仏舎利が発見される。この発見でこの地はお釈迦様の生まれたKapilavastu 城(カピラバストゥ城)ではないかとも言われている。また、別な研究では骨壷に入っていた装飾品の数々はアショーカ王が布施したものであると言及している研究もある(別の機会に深堀してみたい)ウィリアム・ペッペが発掘した仏舎利は2500年前に伝えられた大般涅槃経の中の釈迦族が引き取った仏舎利だったのではないか。そんなことを考えると胸が熱くなってしまう。

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■仏舎利発見後 仏舎利の一部が当時のサイアム(タイ)にもたらされることとなり、またその一部が日本にも分骨されることになるのです(続く)



*ブッダ最後の旅ー大パリニッパーナ経 中村元 では壺ではなく龕(がん)となっていたが現代語訳に入れ替えた(龕=遺体を納める棺 (かん) や輿 (こし) 。ひつぎ。

**日常読経経典 日本テーラワーダ協会

Willam Peppe の子孫による webesite

The Piprahwa Projcect

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