インドネシア滞在記⑫喜捨
今はどうかわからないが、街でアンコットに乗っていると、必ずと言っていいほど遭遇する出来事がある。車が止まると、入り口からひょいっと人が乗り込んできて突然歌い始める。大抵ボロい身なりをした若い兄ちゃんが多かったが、まだ小さい男の子もいて、ウクレレや、手作りの謎の楽器を携えていたり、何もない場合は声だけを武器に、民謡っぽい独特な曲を披露していた。たまに「おっ」というくらい上手な兄ちゃんがいたりしたが、こっちが心配になるくらい音痴な者もいた。一曲歌い終わると、今度は
「プルミシ~(すみません)」といいながらお金いれるための箱を差し出して回る。
私はその度に何となく落ち着かなくて、いつもどうするのが正解かわからなかった。果たして安易にお金を入れることが正しいのかわからず、心の中で「ごめん」と唱えながらそっと目をそらして歌い手がいなくなるのを待った。
そんなある日、私はナハロウィ先生という教授の娘のアイダちゃんと一緒に学校の近くの屋台でご飯を食べていた。ナハロウィ先生は優しくてユーモアがあり、若い時に日本の大学に留学したことがあったので日本語もとっても上手だった。IPBのキャンパスに日本人がいると知ったナハロウィ先生はある日突然連絡をくれて、「アンさん、困っていることがあったらいつでも言ってね」と言って、事あるごとに私をおうちに招待してくれたり遊びに連れて行ってくれたりと、本当に親切にしてくれた。聞けば自分が留学していた時に日本人にすごく良くしてもらって、助けられたからだという。先生には3人の素敵な娘さんがいて、アイダちゃんは次女で、眼鏡をかけていて、声がかわいくてちょっと天然で、いつも「アンさんアンさん」と日本語で呼んでくれた。
アイダちゃんとご飯を食べ終わると、「アンさんごめん、ちょっと待っててね」と言ってすぐ近くの細い路地の中に入っていった。初めて足を踏み入れたそこは、スラム街みたいになっていて、アイダちゃんはその一つの家に入っていった。家と言っても扉もなかったし、あるのは寝る場所くらいで屋根は半分しかなく、壁がほとんどむき出しになっていた。その家の中には裸足でボロボロの服を着たお母さんと小さい女の子がいて、お母さんはどこか体も悪そうに見えた。アイダちゃんは正座をして座りながらそのお母さんに、体調はどうですか?とか近況を尋ねたりして、最後に「また来月来ますね」と言ってそっと封筒を渡してその家を後にした。多分その封筒にはいくらかのお金が入っていたのだと思う。その後「じゃあね」と普通に私たちは別れたが、大学のすぐ近くにこんな暮らしがあることすらも、私は全然知らなくて、しばらくそこに佇んでしまった。
イスラム教には六信五行という義務がある。「六信」とは6つの信じること、「五行」とは5つの行うべきことを指している。世界史でも習ったが、この五行の中に「喜捨」というものがあって自分の財産の一部を貧困者や困っている人に分け与えることを言う。喜捨には義務的なものもあれば自発的なものもあり、アイダちゃんのそれがどちらだったかはわからないが、とにかく私は初めて「喜捨」を目の前でみた。
インドネシアには生活保護という社会制度が存在しない。だからこうした喜捨の教えや誰かの優しい気持ちで、沢山の人が何とかその日を暮らしたり救われたりしている。よく考えると結構非効率だし、こうした文化がむしろ物乞いを助長したり、結局は根本的な解決にはならないと言う議論もあるようだ。けれどアイダちゃんがそのお母さんに体の具合はどうですか?と尋ねる姿には「そんなことどうだっていい」と思わせる別の次元の何かが確かにあったし、壊れかけた家の中はアイダちゃんやナハロウィ先生の家族の優しい気持ちで満ちていた。
日本人も同じで、結構みんな、不器用ながらも誰かのために何かをしたいと心の奥で思って生きている気がする。子供が生まれてからは特にそう感じるけれど、だれかの優しい気持ちに助けられて、今度はそれを誰かに返したいと思う。
インドネシアの文化に私の入り込む隙はなかったし、それが正しいのかは今もわからないけれど、その日からアンコットで歌を歌うお兄ちゃんや男の子に遭遇すると、私は目をそらさずに、財布の小銭をためらわずに入れるようになった。