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ありがとうと言われなくても心が満たされるものは何か

自分が心から望んでやっていること

その上で誰かが喜んでくれたら、ありがとうと言われたら、自分の心も温かくなる。

でももちろん、そんな時ばかりではない。

相手が自分の些細な気遣いに気づかない時、
自分がやったことが、相手はそこまで望んでいなかった時

自分の行為が前向きに受け取られることばかりではない。

でも、自分の心から望んでやっていることであれば、
相手の言葉や態度は、自分の感情に大きく左右しないはずだ。

私も、誰かにサプライズしたり、相手に喜んでもらうのが嬉しいタイプだからよく経験することだ。

喜んでくれるだろうな〜と思ったら予想外の反応だったり、

気遣いが小さすぎて相手がもはや気づかなかったり、

意図した方向に受け取ってもらえなかったり、

でもそれは自分が好きでやっていることだから、
言ってしまえば自己満足の行動だから、

気づいてもらえなくても、別の方向で受け止められても、まあ自分が好きでやったことだしな、と受け止められる。

むしろ私の自己満足を真っ向から受け取ってほしいと言っているようなものだから、
喜んでくれなくても仕方ない、
もしそのベクトルが上手くはまって、誰かが喜んでくれたら有難いなくらいで考えている。

笑顔が見たくて、喜んでほしくて、ありがとうと言われると自分が嬉しくて、そんな思いが先行した行動は、時に心が枯渇してしまう。

もちろん感謝を伝えることも大事だけど、そこに大きく依存するのはあるべき心の交流ではないのではないか。

あなたを思ってやっている、言っている、喜んでくれると思ったのに、そんな言葉は独りよがりで、思いやりとはむしろ対極な所にあるようにすら感じる。

なんでも言葉で伝えてほしい、それも大事だが、
そんなコミュニケーションは私にとっては表面的に見える。

母はとてもわかりやすいコミュニケーションが安心するらしい。
思っていなくても、ひとまず謝ってほしい、
感謝の言葉をまず口に出して伝えてほしい、言葉に依拠している。
心から思っていないんだったら表面的な言葉なんかいらない私とは真逆の考え方だったが、
もちろん色んな思いがある。

生まれてからずっと近くにいるからよくわかる。

本当に相手の喜びが全ての人
笑顔でいてくれたら、喜んでくれたら、時には自己犠牲でをする人
その徹底ぶりはすごくて、相手のためだったらどこまでも我慢する人、
そして限界が来てもそれに気づかない人

話してても、自分の感情がよく分かっていないなと感じたり、どこかで耐えられなくなったりしないのだろうか
と心配になったりする

相手が主語ではなくて、自分はそれに対してどう思ったの、
自分がしたいことを優先にしてみたらと
言ってみても、私の意図はあまり伝わっていないようで

私はそこまで相手に合わせられないから、見習うべき部分もあると思う。

でも、ずっと近くで見ていてその感情がわかるからこそ、
喜んでほしくてやっているんだろうなとか、
私からしたら本当はやってほしくなかったけど良かれと思ってやっていることに変なことは言えないなとか、つい疲弊してしまう。

好きでやってるんでしょ?なんてサイコパスのようなことを言ったら2度と口を聞いてくれないと思うが、

率直にいえばそういうことだ。

やってあげてる感を押し付けられるのが嫌で、あえて思いを汲まないこともある。

そんなところでつっかからずありがとうと一言えば済む話だが。

違和感を感じるたびに問いたい。

それは自分がやりたくてやっているの?
笑顔や喜びや感謝の言葉、そんな相手からの見返りがなくても、自分の心はまず自分で満たしてみよう。

その先に、周りの人や大切な人との向き合うことが始まる。

身近な人との関わりを通して改めて考えさせられた。

今やっていることは、相手のためなのか、それとも自分が認められるためなのか、そんなものとは無関係で心が望んでいることなのか

自分の行動や決断を真摯にみつめたい

#エッセイ
#気づき
#創作
#哲学

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