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言葉は可視化された心。 「パーフェクトデイズ」

家族や友人や色んな人に、好きだと思うよと勧められていたパーフェクトデイズ。

想像していた通り、想像を超える映画でとてもとても良かった。

いくつか重点的に語りたいポイントはあるが、今回はその中から一つ、特に印象的なのは圧倒的なセリフの少なさ。

言葉を駆使して伝えることよりも、観る人の心にそっと触れ、
"感じる"とはいかなるものかを魅せる映画だ。

無口ながらも、表情や行動だけで、その思慮深く感性豊かな人間性が滲み出ている主人公の平山さん。

純粋にとても心地の良い映画だった。

メッセージ性が強い映画は、強い印象を与えることができるかもしれないが、観る側としては、どうしても受け身で捉えてしまいがちだ。
映画の主張が強いあまり、自分自身の価値観と違いすぎると違和感で内容が入ってこなかったり、
むしろ自分が無知すぎると、それとしか捉えられなくなることもある。

パーフェクトデイズを観た時、まるで監督や作り手、役者と対話をしているような
今まで映画を観た時に感じたことのない感覚を覚えた。

自分の頭や心を通じて"何をどう感じたのか、自分はここから何を考えたのか"を
一方的でなく、観た人・受け手の全身で感じさせる余白がある。

「君はどう感じる?感じたままが答えだよ」

と随所随所で背中にそっと手を添えてくれるような、
温もりと強さすら感じた。

隙を与えさせる作品は、わたしたちの心を大きく動かしていく。
(これはもちろん映画に限らず、音楽や絵画・詩や物語、あらゆる創作にいえる)

いわゆる"映画"では、膨大なセリフや、音楽や、人の表情や仕草や、風景や、機械音や生活音や色彩や、たくさんの情報が、2時間や3時間という短い時間の中に詰まっている。

「パーフェクトデイズ」という映画は、
とてもセリフが少ないからこそ、
一つ一つの言葉から、人物の表情、仕草、ふとした目線の動き、自分もそこにいるかのようなありふれた日常を切り取った風景まで、
全ての要素に置いていかれることなく、その瞬間のひとつひとつをきちんと心で受け止められる。

映画と自分の感情が同じ歩幅で進んでいく。

私自身、昔から口数が多くなくて、
「言わないと分からないよ」とか
「考えてることがあるなら口に出さないと」
と事あるごとによく言われてきた。

その通りだと思うし、言葉足らずで相手を困らせちゃうこともあるかもしれない。

でもどこかで、
何でもかんでも口に出せば良いわけじゃない気がするんだけどな。

とずっとひっかかっていた感覚は、やはり私の心に変わらずあった。
そして、パーフェクトデイズを観て、その感覚は間違っていないと改めて感じた。
今も口足らずな自分に悩むことはあるが、それも自分らしさの一つなのだと思う。

相手を思いやる心や、真摯に向き合う心や、一つ一つの感情は、言葉がなくても伝わると、私は思っているから。

優しい眼差しや、丁寧な手つきや、その人の習慣や、もの一つの扱い方から、自然に滲み出ている。

きっとお互いがそういう姿勢でいれば、
"言葉にしないと何も伝わらない"なんてことにはならないと思う。

ではなぜ、私たちには言葉があるのか。

言葉があるからこそ、
うまく表せない形もない気持ちを、より目に見える形で表すことができたり、

表現が複雑になったり豊かになったり、言葉が架け橋となり、人の繋がりに彩りを与える。

「今度は今度 今は今」

この言葉が印象に残った人も多いのではないか。

"今"を全身で感じて生きる、平山さんだからこそ
出てきた言葉だ。

言葉は"目に見える感情"だ。

自分の心と同じ様に、感じたこと全てを言葉にして表に出せば良いというわけでもない。

自分が心地よい在り方で言葉や感情に向き合えば、それで良い。

私の心はどのように感じたか、それを言葉に出すのか、心のポケットにそのままそっとしまっておくか、自分の感情を愛でながら探っていこう。

※追記
フィルムカメラで木の枝先と空が重なる写真を撮るのが
ルーティンだった平山さん。
この角度、実は私もよく撮りがちなお気に入りショットだ。
平山さんはモノクロのフィルム仕上がりだが、
枝先と空と太陽が重なり、葉っぱの間から溢れる陽の光が美しくて、公園や、山の中や、街中や、ふと見上げてた時にその美しさに心奪われつい撮ってしまう。

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