【映画感想】ヘレディタリー/継承
アリ・アスター怖くない?私は怖い。
「ミッドサマー」の監督だが、私としては「ヘレディタリー/継承」のイメージが強い。
そして彼のもう一つのイメージは、いつもニコニコしていて優しそうなお兄さんであるということだ。
澄んだ目をしていて「保育園の先生です!」と言われたら信じそうになる。あんまりホラー映画を撮りそうな感じがしない。
ジェームズ・ワンとかは写真を見ると何故か漠然と「ホラー映画撮影しそうだな」という感じがするのだが、アリ・アスターにはあまりホラーが好きそうだなという気配を感じた覚えがない。
ということで今回は、久々に見たらやっぱり怖い映画だったな…と思ったので「ヘレディタリー/継承」の感想文を書いていこうと思う。
アリ・アスターがまず怖い
基本的にアリ・アスターという監督は、作品の序盤から「お前らをめちゃめちゃに苦しめてやるからな」みたいな感じで映画を作っている気がする。とりあえずオープニングからそういう気概がすごい。
彼の作品は「ホラーとして怖い」わけではなく「逃げ場が無くて怖い」のほうがより近い。
例えるなら「よちよち歩きの小さな子供が赤信号を渡っている」みたいな感じだ。しかもそこにトラックが近づいてきていて今にも跳ねられそう。
そこを助けようとした知り合いが、失敗して子供と一緒にトラックにひかれるのとは別の理由で死ぬみたいな映画なのだ。
とにかく「こうなったら嫌だな」「どうしてこうなっちゃうのかな」が立て続けに起きる。選択の最悪が発生する。
一事が万事、アリ・アスターはこういう映画を作る監督だ。
「ヴッ」てなるシーンの積み重ね
アリ・アスターは上記にも上げた通り、「こうなってほしくない」をにこにこしながら積み重ねる人だ。
もちろん「ヘレディタリー/継承」でも「ヴッ」となるシーンがある。
個人的に一番「ヴッ」となったのは、アレルギーの発作を起こしたチャーリーが、ピーターの運転する車で事故死する一連のシーンだ。
ピーターは16歳、母親であるアニーの車を借りて「学校の行事に行く」と偽り、友人宅のパーティーに参加することにした。
ところがアニーはピーターの妹で、13歳のチャーリーを絶対に連れて行けと無理やり二人で参加をさせる。
無理やりお守りをまかされたお兄ちゃんが、妹をお守りなんて絶対にしないことくらい分かりそうなものだし、大体チャーリーだってパーティーに行きたくないと言っているのに、アニーは自分のことに必死で兄妹の嫌な気持ちなどちっとも汲みもしない。
案の定、パーティーでチャーリーは一人放置され、その時にナッツの入ったケーキを口にしたことでアレルギーの発作を起こしてしまう。
慌てたピーターは車にアニーを乗せ病院に向かうが、呼吸困難に喘ぐチャーリーが車の窓を開けた時、動物の死体を避けるためピーターがハンドルを思い切り切ったためになんとチャーリーは窓からそのまま電柱に激突。
あまりのショックでピーターはその事故をアニーに伝えることができない。車の中に頭のないアニーの遺体を放置し、そのまま部屋に引きこもってしまう。
そして翌日買い物に行こうと車に乗りかけたアニーが、その車の座席でチャーリーを発見するのだ。
この一件をきっかけに、アニーとピーターの関係は急速に悪化していく。
嫌なリアリティがあるから怖い
私自身、妹がいるのでこの時のピーターの気持ちが非常に良く分かる。
とにかく妹といつも一緒にいるように言われ、友人の家に遊びに行くとなると常に妹がくっついてくる。
めちゃくちゃに息苦しく、妹が来るという理由で遊びに誘ってもらえなくなることもあった。
そのことを親に訴えても「一緒に連れて行ってあげて」と強引に一緒に連れて行かされるのだ。そして妹が転んだり、迷子になると私のせいになる。
こういう微妙なところに妙なリアリティがあって、嫌な気持ちになる。
ピーターはそもそも母親であるアニーに嘘をついているのは良くないが、本来なら一人で行きたかったはずのパーティーに無理やりチャーリーを連れて行けと言われたせいでこんなことになった、と感じていただろう。
実際作中でもそんなようなことを、ピーターは叫ぶ。
チャーリーを連れて行けとアニーが言わなければもっと友人たちとパーティーを満喫できたし、チャーリーだって嫌がっていたパーティーに参加せずすんだし、チャーリーがナッツ入りのケーキを食べてアレルギーの発作を起こさず済んだし、車で事故を起こしチャーリーが死ぬこともなかった。
そしてパニックを起こしたピーターは事故で妹を殺してしまった事実に耐えられず、「ついた嘘も言わなければ、誰にも事故のことを言わなければ、丸ごとなかったことになるのではないか」と口を閉ざしてしまう。
挙句の果てに母親は彼を「産まなきゃよかった」などと暴言を吐いてくるのだからなおさらだ。
規模の大小はあれど、こういう心理はなんとなく理解できる人もいるのでと思う。
また、アニーはアニーで他者を生贄にして自分は難を逃れる癖がある。
アニーは広義の毒親だ
アニーは娘であるはずのチャーリーをある理由からかなり持て余しているが、そもそもその原因はアニーにある。
アニーの母親は悪魔信仰に傾倒しており、自分の血筋に悪魔を憑依させたいと考えていた。そしてその儀式の犠牲になってアニーのお兄さんは自殺している。
これは母親が崇拝する悪魔「ペイモン」が、男性の体を欲したためだったのだが、アニーのお兄さんで失敗してしまった母親は何が何でも「男の子が欲しい」と思っていた。
ところが自分はすでに高齢で子供を産めない。だから自分の血脈を受け継ぐ孫を求めたのだ。
そのことに恐怖したアニーは、自らの娘に「チャーリー」と男の子の名前を付けてとりあえず母親に与えた。
大義名分は「男の子であるピーターを守るため」であり、チャーリーは悪魔へささげられた供物だったのだ。
我が身可愛さに、アニーは自らの子供を「精神疾患になったらどうしよう」とか「愛している」と言いつつも生贄にささげている。
アニーは物語が始まる前から、立派な悪魔崇拝者といっていい。
勿論この原因を作ったのはアニーの母親であり、彼女も毒親だ。
毒親からのサバイバルに成功したはずのアニーは、全く成功していなかった。結局彼女自身も毒親だったのだ。
アニーが守りたかったのは自分自身
恐らくアニーは最初から、守りたいものは一つしかなかった。
それは自分自身だ。
家族を守りたかったという割には男の子を欲しがった母親に「チャーリー」と男の子の名前を付けた娘を差し出している。
そして超おばあちゃんっ子になった問題児チャーリーを持て余し、ピーターに世話をさせたのに、その割にはチャーリーが事故で死んだのはピーターのせいだととにかくピーターだけを責めている(そして逆ギレされる)。
本来はありとあらゆる場面で未成年の保護者であるアニーが責任を取らねばならないのに、アニーはピーターへその役割を押し付けた。
つまりピーターはチャーリーへの生贄になってしまった。
そんな妻の様子を見て旦那であるスティーブは「ピーターの親権を確保して離婚しよう」と考え始めている。
スティーブにはもはやアニーが正常な精神を持った母親には見えていない。攻撃的で精神の均衡を崩し、何もかも他者のせいにしなければ生きていけない状況になっていると感じている。
そして、そのスティーブの発想は正しい。
この物語の中で冷静に現実を見ているのはスティーブだけだからだ。スティーブだけが現実の世界に生きている。
毒親から逃げるのは難しい
こうして断片的に見てもアニーが守りたかったのは家庭ではなく自分自身だったとと考えた方が合点がいくことが多い。
母親に犠牲にされた娘は、自分の子供を犠牲にするほか何もできなかった。
普通ならスティーブのように「その影響が及ばないところに逃げる」だろうが、とりあえずなあなあの手段を取っている。
結局アニー自身、毒親からの影響から完全に逃れ切れていないからだ。
身近にやべー親族がいた場合、身を護るためには早急に縁を切り連絡を絶ち、一切の接触を断つ必要があるというのは毒親関係でもよく聞く。
だがやべーやつだと理解しつつも、そういう関係をなぁなぁで続け、娘を差し出した結果自分も旦那も娘も死んで、息子も大変なことになって、そこにちょっと悪魔崇拝要素が入っている。
それが「ヘレディタリー/継承」という話だ。
毒親に支配されるといかに逃れることが難しいか、というのも一つのテーマなのかなと思った。
監督にとって家族は地獄の入り口
この「ヘレディタリー/継承」を作るにあたり、監督は様々な「機能不全を起こした家族たちの映画」をもとにしていると公言している。
また、この映画のプロットは「彼の家族にある不幸が起きた」ことからスタートしているのだという。
彼の作品は「母親に過干渉を受ける息子の話」とか「年老いた父親が息子から性的虐待を受ける話」とか、そんなのばっかりだ。
彼にとって家族とは「最小単位の心安らぐ環境」ではなく「地獄への入り口」なのだと思う。
でも確かに、家族は最も身近な地獄への入り口であるというのは同感だ。
最も小さく、最も閉ざされていて、一番助けを求めたり、共感してほしい相手、それが家族だ。
だがその家族が牙をむき、彼らに害される人は多い。
「ヘレディタリー/継承」はまさにそういう家族の話だ。
そして、そうした家族の嫌な部分が脈々と母から子へ受け継がれて(継承されて)いく話でもある。
「継承」されるのは悪魔の血筋だけではない。
地獄も継承されていく。
この映画はそういう話だったんだな、と思っている。