お庭の大将
真っ青な空に向かって、タターン!と、軽快なピストルの音が響き渡る。
近くで散歩をしているスズメの家族も、テント裏の畑で日向ぼっこを楽しむ鳩の兄弟も、きっとびっくりして飛び上がっただろう。
さぁ、行け!
頑張れ!負けるな!
今日、学校帰りにお父さんの話になった。
今度の運動会で、プログラムの最後に五キロマラソンがある。
それは選抜の生徒だけでなく、希望する親、家族も参加出来る、毎年恒例の目玉の種目だ。
しんちゃん、かっちゃん、ゆうちゃん、こうちゃん、かいちゃん、まなちゃん、りんちゃんとこは、もうだいぶ早くにお父さんの参加申し込みの用紙を提出したらしい。
「たっくんとこ、お父さん出るん?」
と聞かれ、ぼくはマンガの話題に持って行き話をごまかした。
なぜならぼくは、その申し込み用紙を、まだお父さんに見せてさえいないからだ。
別に渡し忘れた訳ではなくて、その参加申し込みの話を切り出すべきか、いっそのこと内緒にしておくか、今なお迷っているからだ。
ぼくにはお母さんがいない。
妹が生まれてすぐに、お母さんは死んでしまった。
大きな病気だったらしいけれど、もちろんぼくはその時のことなんて覚えていない。
それ以来、お父さんは、男手ひとつでぼくと妹の琴音を育てていて、仕事が忙しく、あまり時間が取れないんだ。
そして正直に言うなら、あま来欲しくないなぁと言うのがぼくの本音だ。
しんちゃんのお父さんは、車の営業マンをしている。
いつもかっこいいスーツを着て、ピカピカの腕時計して良い香りで授業参観にやって来る。
かいちゃんのお父さんは公務員で、これまたピシャッとしたおしゃれな洋服で学年レクレーションに参加した。
まなちゃんのお父さんは介護士だ。
クラスの女子の間では、「芸能人みたいだね!」と、とても人気がある。
ぼくのお父さんは、魚の養殖の仕事をしていて、朝まだ暗いうちに出かけたり、夕方家を出て朝方に帰って来たりする。
夏は真っ赤に日焼けをし、冬はあかぎれで指が腫れ、グーが握れなくなる。
いつだったか、文化祭でぼくのクラスが劇をした時、まさかの寝坊をやらかしてしまい、体育館に到着したのは琴音のクラスの合唱が、もう終わってしまう時間だった。
そんな過去の出来事があるので、ぼくはマラソンのお知らせをまだ見せていないという訳だ。
その方がお父さんのためだと、まぁ子供心と言ってもいい。
しかし、琴音と相談をし、夕ご飯の時、意を決してプリントを渡す腹を、ぼく達はとうとう決めた。
お父さんはいつものようにビールを飲み、自分で持ち帰ったアジを刺身にして美味しそうに食べていた。
「お!マラソンか!?出てみようかな。お父さんさ、走るのだけは誰にも負けた記憶がないんだ。胃袋と肝臓と脚の三冠王だ。」
と、訳の分からない無責任な冗談を言う。
脚が速いなんて初めて聞いたぞ。
琴音も目をキョトンとしていたが、こうしてぼくの家もお父さんのマラソ参加が決定した。
ぼくのお父さんはお酒が大好きで、飲むといつも顔が真っ赤になる。
節分の赤鬼のようだ。
いい気分になると決まって、
「拓と琴音には苦労かけるなぁ。」
と、しみじみ言う。
それからよく分からない謎の鼻歌を口ずさみながら庭へ出て、野良猫たちにエサをやる。
たまに、たぬきや、小さいイノシシなんかも一緒にエサを食べているので、ぼくも琴音と二人で恐る恐る近づくけれど、なぜかみんな逃げてしまう。
それを見たお父さんは大笑いしながら、
「お父さんみたく動物を手懐けるのにはあと何年も修行がいるぞい。お酒で催眠術をかけてるからなぁ。これは熟練の技でござるよ。」
と、鼻を膨らませて言う。
あながち嘘ではないだろうが、どうも胡散臭くて、ぼくは酔っ払ったお父さんはあまり好きではない。
なぜかだらしなく思えるからだ。
かいちゃんやまなちゃんのお父さんは、もっとカッコよくお酒を飲むに違いない。
ぼくは、大人になっても、絶対にお酒なんて飲まないだろう。
こんなに顔を赤くして、調子のいいことを自分の奥さんや子どもに言いたくはないし、見せたくもないから。
友達のお父さんみたく、いつも礼儀正しい、カッコいい父親にぼくはなってやろうと決めているから。
運動会の当日、珍しくお父さんが仕事を休み、朝から気合いを入れてお弁当を作っていた。
ぼくと琴音が大好きな、からあげやハンバーグ、アジフライや餃子なんかも入っていて、わかめおにぎりまである。
「どうしたの!?えらく豪華やね?」
と聞くと、
「当たり前だ。今日は運動会だろ?お父さんも走るんだ。拓も琴音もいろいろ出るんだろ?いいか、人間も魚も動物もな、ご飯をたくさん食べてるやつが強くて速いんだ。お父さん、今日のマラソンのためにしばらく禁酒したんだぞ。その分食べ過ぎてるけどな!まぁ見とけって。」
そう言ってわざとらしく缶ビールをクーラーボックスに詰め込む真似をし、こりゃ間違えた!と自分で突っ込んで大笑いしている。
(こんなんで大丈夫かよ・・)
と、ぼくは内心とても心配だった。
運動会は、ぼくと琴音のいる白組は劣勢だった。
午前中の玉入れや騎馬戦などの団体競技で負けてしまい、すでに大きくリードされていた。
お父さんの大盛りお弁当で力をつけ、特製のハチミツレモン(お父さんが夏場、熱中症対策で仕事に持参するオリジナルドリンク)を飲んで体力回復、さぁ準備万端だ!
綱引きで逃げ切り、紅白リレーでなんとか追いつき、点数はかなり迫っていると思う。
ぼくは徒競走で二番を獲ったし、リレーでも二人抜いた。
琴音だって障害物競走で二番だった。
最後のマラソン、大人はくじ引きで赤組か白組かが決まる。
ひとつ誤算だったのは、先生達も参加するということだ。
山下先生は部活の担任だし、池部先生は学生時代、駅伝で区間賞を獲っているらしい。
音楽部の奈々先生も高校時代は陸上部だ。
腕、いや、脚に自信のある先生や、お父さんたちが参加を決めたんだろう。
幸運なことに(?)ぼくのお父さんは同じ白組だ。
しかしながらその実力は未知数なので、同じ白組のかいちゃん、ゆうちゃんのお父さんや、部活の山下先生の走りと活躍に全てを託した方が賢明かも知れない。
体育委員長の清水先生が、緊張した面持ちでスタート地点にやって来た。
「位置について!用意・・!」
真っ青な空に向かって、タターン!と、軽快なピストルの音が響き渡る。
近くで散歩をしているスズメの家族も、テント裏の畑で日向ぼっこを楽しむ鳩の兄弟も、きっとびっくりして飛び上がっただろう。
さぁ、行け!
頑張れ!負けるな!
いざ、スタートの瞬間だ!
『さぁ、皆さん、大会最後のプログラム、保護者、先生参加のマラソンの幕が切って降ろされました!さて、先頭は誰か!?おっと、さすが駅伝の記録保持者、池部先生!トップを走ってみんなをリードしています!!この大会のために禁酒を行ったとの情報が手元の資料に書かれております!』
場内から大きな笑いが起こる。
放送委員の松村先生の実況は、毎年面白くて名物でもある。
禁酒?それならぼくのお父さんも同じだぞ。
あれだけ飲んでいたビールをしばらくやめたんだ。
嘘か本当かは分からないけど。
お父さんはどこだ?
今、どこを走ってる?
首にタオルを巻き、ズボンのうしろポケットにタオルを突っ込んでるのがお父さんだ。
それが仕事の時のお父さんのスタイルで、私服の時だってその癖と習慣が変わらないんだ。
『おっと、六年生集団に追いついたのは、なんと拓くんのお父さんです!同じ白組の山下先生はまさに目の前です。あっと、拓くんのお父さん、なんと山下先生を追い抜きそうです。白いタオルが仮面ライダーのようだ!颯爽と風を切って、今追い越しました!この日のために禁酒を計画し、しばらくして体調が悪くなり、禁酒を断念したとの情報です。ガソリンがないと車は走らないとの本人のコメントが、手元の資料に書かれております。』
大き拍手と歓声、笑い声が巻き起こる。
禁酒してないんかい!
なんだそのこじつけ理論は!
ちょっと尊敬して損したじゃんか!
まぁいいや、この際いい、がんばれ!
頑張れ!お父さん!
ぼくと琴音のお父さん!!
『赤組がやや優勢か!いや、勝負は最後の最後まで決して分かりません。マラソンは人生です。人生の縮図です。何が起きても不思議ではありません。長いマラソンの中で、すべてのランナーが主人公です。どんな結末が待っているか、終わりまで分かりません!台本を書くのは他の誰でもない、主人公自身なのです!!みんな、頑張ってください!!」
松村先生のアナウンスにも力と気持ちがこもる。
しんちゃんのお父さん、かいちゃんのお父さんも負けてはいない。
みんな速い。
やっぱりみんな特訓して来たんだ。
そして若いまなちゃんのお父さんの走りはさすがに桁違いだ。
スパートをかけ、生徒を抜き去る。
先生たちをかわしてトップだ。
テントのまなちゃんに手を振って話しかけるほどの余裕の表情だ。
赤組有利には違いないけれど、白組が連続しゴールしたら、まだまだ点数の行方だって分からない。
いけ!白組!
走れ!走れ!
負けるな!白組!
応援団の旗も、大鷲のように風の中を羽ばたいている。
太鼓に笛、応援合戦も熾烈な戦いに花を添える。
ラスト近くになると、やはり六年生は強い。
部活で朝晩鍛えられてるから余裕で先生を越す。
見せ場を作るため、あえて後ろをみんなで走ってたんだな。
大人で最初にゴールしたのは、やはり白組の池部先生だ。
赤組の山下先生を、なんと寸でのところで奈々先生がかわした。
その後ろにまなちゃんのお父さん、かいちゃんのお父さん、そして白組からはゆうちゃんのお父さん、そしてなんと、ぼくのお父さんがデッドヒートを繰り広げている。
まさに団子状態、稀に見る混戦だ!
若さでは敵わないけれど、ぼくのお父さんが一番鍛えてるはずだ!
頑張れお父さん!
負けるな!
負けるなー!!
『さぁ、まさに死闘!ラストスパートです。最後まで応援、声援をよろしくお願いします!』
『おっと、どうした!?優斗くんのお父さんが転倒してしまいました!ラストスパートでもつれてしまったんでしょうか!大丈夫でしょうか!?』
ゆうちゃんのお父さんが倒れ、顎から真っ赤な血が流れているのが応援席からでも分かるほどの流血だった。
歯を食いしばり、顔をしかめて辛そうだ。
手を地面に付き、体を起こそうとするが、なかなか立ち上がれない。
ゆうちゃんのお父さん、大丈夫かな?
その時だった。
ゴール直前だったぼくのお父さんが、急に走るの止め、ゆうちゃんのお父さんの所へ駆け寄った。
何か声をかけているようだ。
ポケットのタオルで顎の血を押さえ、首のタオルを肘の怪我に巻いている。
そしてゆうちゃんのお父さんをおんぶして、ゆっくり歩き出した。
ゴールまで、何メートルくらいだろうか?
ゆうちゃんのお父さんは申し訳なさそうに、そして誰よりも悔しそうな表情で、ぼくのお父さんにおんぶされている。
お父さんも、同じように歯を食いしばり、お酒を飲んだ時のように顔を真っ赤にしながら、拍手の中を、一歩ずつ、ゆっくり進んで行った。
そしてついにお父さんたちは、最下位でゴールに辿り着いた。
それからゆうちゃんのお父さんをゆっくり背中から降ろすと、ゆうちゃんお父さんの腕を握って高々と天に向かって差し出した。
二人分の大きなガッツポーズに、拍手が鳴り止まなかった。
悔しそうだったゆうちゃんのお父さんもいつの間にか笑顔になり、少し泣いて、また涙を拭っ笑っていた。
ぼくのお父さんはゆうちゃんのお父さんを左腕で抱きかかえ、右手の親指でゆうちゃんのお父さんを指し、ナンバーワン!!という仕草をした。
そしてその姿勢でぐるっと回り、最後にお辞儀をして、お互い肩を組んでテントへ帰って行った。
優勝は、やはり赤組だった。
かなりの差がついていた。
帰る時、またお父さんの話になった。
「たっくんのお父さん、すごいね!カッコ良かったね!」
「ゆうちゃんのお父さん、一番大きいのに、その体をおんぶして歩くなんて、プロレスラーみたいだね!カッコ良いなぁ!」
そう言ってくれた。
家に帰ると、お父さんはいつものようにビールを飲んでいた。
すでに酔っ払っていて、赤鬼さんのような顔をしていた。
「ゆうちゃんのお父さん、重くなかったの!?」
と尋ねると、
「お父さんな、普段からお酒で体に麻酔してるからさ、痛みもキツさも感じないんだよな!」
とふざけて笑った。
「日頃から船に乗ってるだろ?波に揺られて毎日毎日立ってるから、足腰が強いんだよ。」
今度は少し得意げだった。
一等が獲れなかったのが少し悔しかったらしく、来年また挑戦するらしい。
次回は、本当に禁酒をするそうだ。
ぼくも琴音も信じてはいないが、来年は早めにプリントを渡そうと思う。
ぼくたちは、新鮮な刺身をいっぱい食べ、運動会の話で盛り上がった。
いつもと変わらないお父さんが、なぜだかいつもよりカッコ良く、大きく輝いて見えた。
お父さんはビールの後、お気に入りの焼酎を飲み、それからまたまた聞いたことない鼻歌を歌いながら、庭へ行った。
琴音が追いかけて行き、お父さんの真似をして一緒に口笛を吹くと、いつものように猫がやって来た。
ぼくもそこへ行き、三人でエサをあげた。
たぬきやイノシシの子はいなかった。
ぼくもいつかお父さんみたいな大人になった時、お父さんの真似をしてビールを飲んでみようと思う。
そしてぼくも、お父さんみたいに口笛を吹いたり鼻歌なんか口ずさみながら、お庭の猫たちにエサをやってみよう。
たぬきとイノシシの子ども、それにイタチやウサギなんかもやって来たらいいのにな。
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