『榛名』レビュー
伊香保温泉街にて
横光利一もかつて、この伊香保を訪れた。その体験をもとに中央公論に短編をあげた。『榛名』(はるな)がそのタイトルだった。『青き上に』と題された短編集には、伊香保・榛名に由縁のある作品が40編ほど収録されていたが、利一の『榛名』とはそこで出会い、夏目漱石や与謝野晶子よりも私の気を引いた。
筆者が泊っているのは旅館「横手館」だ。伊香保神社に至る石階段を中ほどまで登り、アニメキャラクターの印刷された自販機を左に曲がれば、「横手館」の提灯(を模した電灯)が見える。お香で出迎える粋な演出。木目のフローリングは掃除が行き届き、橙色の照明をにじませていた。
華美な文体が抹香臭い利一の『榛名』は、まるで旅に浮かれたまま、薄目に霞んだ妄想だけで描き切ってしまったような作品だった。とりとめのない事実の羅列が、華美に装飾されただけの文章で説明され続ける。
私は水瓶の底を泳いでいる鯉や、金網の中の兎の姿を思い浮かべなが ら、見るともなく湖の上を見ていると、うすぼんやりと現れた波打ち際の線に従って、鳥の群れが一羽ずつ隊列を作って静かに霧の中を進行していく姿が墨絵のように眺められた。
ながい。湖から水鳥が飛び立つ様子を描くだけでこの分量。書くことがなかったのだろうか。それならわかる。
横光利一という作家と出会ったのは、早稲田の渡部直己先生による著書『日本小説技術史』のなかだった。序文が、
坪内逍遥『小説神髄』(1885~86)から横光利一『純粋小説論』(1935)まで。……おおむねその時間経過に沿った……小説作品を論じている。(渡部 P9)
と始まり、読者はさっそくグーグル先生に尋ねることになる。
「へいないしょう はるか とは」
話題は坪内逍遥(つぼうちしょうよう)ではなく、「ヨコミツトシカズ」のほうだ(注:リイチ)。
利一は著書の最終、第9章で論じられる。『上海』に流れる水のイメージ。『機械』の「格闘」。この2つの論考を読めば、横光利一という文章が、いかに小説の流れに一致するか、その鮮やかさが浮き彫りになる。小説内の出来事と、心情描写とのタイムラグを感じさせない一致感は、筆者を驚かせた。心に目を向けている間も、時間は止まらない。しかしながら上記の2作を引用するだけで利一の論考は終わってしまう。まるでそれ以外は……とでも言いたげな様子だ。『榛名』に戻ろう。
先ほどの引用の、「ながら」という接続助詞の前後にピントを絞りたい。この描写対象になっている主人公の動作を整理すると、「湖を見る→鳥を眺める」という一回の目線移動があるだけだ(たったそれだけに3行もかけているなんて!)。人物は、この目線の移動と「同時に」鯉や兎を「思い浮かべ」ている。「思い浮かべる」は動作描写ではなく、心情描写の対象だ。したがって、小説が思い浮かべることを登場人物に強要している間、物語の世界は止まったままだ。しかしながら唐突に始まる「私は水瓶の底に……」という文脈放棄とも言える描写の切り口と、接続助詞「ながら」の時系列操作によって、「ながら」以前の思考を見るという動作に「上書き」できているように見える。たとえば「AしながらBした」の文章を逆にして、併置しよう。「BしたときにAしていた」
私は水瓶の底を泳いでいる鯉や、金網の中の兎の姿を思い浮かべながら、見るともなく湖の上を見ていると、……
見るともなく湖の上を見ていたとき、私は水瓶の底を泳いでいる鯛や、金網の中の兎の姿を思い浮かべた。
この2つの文章が「うすぼんやりと現れた波打ち際の線に従って、鳥の群れが一羽ずつ隊列を作って静かに霧の中を進行していく姿が墨絵のように眺められた。」に続く。どちらのほうが、時間的切れ目が見えづらいだろうか。句読点「。」の存在が時間を切らしているというならば、その句読点を「、」に変容させた接続助詞の選択に注目したことは間違いではなかった。
現実の世界では心情と出来事が同時に進行している。それがもたらす小説と現実の乖離に筆者は苦労している。理性論理の力が強められている現代においてはその乖離は顕著になるだろう。利一の試みは、そうした隔たりへの警句だったのではないか。