親バカと俳句:写真の部屋
写真は俳句に似ている、と言った人がいて、なるほどなと感じました。
写真は記録する行為と表現する行為の段階に分けられます。「衝動」と「表現」というのがあるとして、「あそこにネコがいる。可愛いから撮ろう」と思うのは衝動で「ここで出会ったネコと自分との関係を写真に残そうと思ったのはなぜか」と考えることが表現です。そして甘く見てはならないのが、写真を見る人にはそれがすべて伝わってしまう、ということです。
「ああ、そこにネコがいたから撮ったんだな」とわかってしまうのです。もちろんそれもひとつの個人的な選択なのでいいのですが、もしそこで「私がこの写真で表現したかったこと」という発言をするならば、表現のコアが必要になってきます。自分の子どもの写真を毎日撮るのは記録として素晴らしいですが、それは普遍的な「子どもを撮影した名作」とはそもそもスタンスが違っているということです。
「うちのペットは可愛いでしょ」というソーシャルメディアでの投稿には誰にもケチをつけません。「わー、可愛い」と言ってくれるはずです。「そんな写真を見せるなんて、親バカじゃないですか」などと常識ある大人は言いませんから。でも見知らぬ子どもであろうとペットであろうと「普遍的ないい写真」になることは可能です。過去の名作と言われる写真にもそういったものが多数ありますが、そこには記録と表現が両立していると言っていいでしょう。
では、親バカ写真との決定的な差は何なのでしょうか。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。