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Monicaの話:Anizine(再掲 / 無料記事)

彼女と出会ったのはParisのカフェです。
サン・ミッシェルのカフェ「Le Depart」で、Monicaは隣の席でずっと絵を描いていました。俺が川の方にカメラを向けて写真を撮ると「見せて」と言いモニタをのぞき込んできたのです。

Monicaにカメラを向けると写真が嫌いなようで断られました。スパゲティのようなインスタントラーメンのような絵を見せてもらいました。何かはわかりませんが、いずれにせよ麺類であることは確かです。

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Monicaはイタリアのピエモンテ、アスティの出身で、21歳の時にParisに移住して結婚。離婚をし、今は療養中だそうです。イタリア人が話すボキャブラリーの少ない英語は俺の耳に心地よく響きました。元気そうに見えましたが、初対面で病気の話をするのは憚られたので、その日は何もたずねませんでした。

翌日カフェをのぞいてみるとMonicaは同じ席にいました。A4の紙を5センチくらいの束でテーブルに積み上げています。手を休めることなくずっと描いている。昨日を思い出すと、彼女は俺と話している間も絶え間なく描き続けていました。

Monicaはニコニコしながら、「私は精神的なトラブル(Mental Troubleと言った)を抱えていて自殺寸前まで行ったのだが、絵を描くことで救われているのだ」と説明してくれました。医師が「何か気を紛らわすことをしてみると気持ちが安らぐのではないか」と彼女に言ったそうです。深刻に考えて思い詰めないように、ということでしょう。

「たとえば絵を描くとか」

絵などまったく描いたことがない彼女は病院の帰りに文房具屋に寄り、小さいスケッチブックと36色の色鉛筆を買ったそうです。試しに描き始めますが、何も描けなかったそうです。花瓶の花を描いてみたり、人形を描いてみても何も楽しくない。

気分が落ち着くどころかイライラが募ってくる。たくさんの綺麗な色鉛筆もどの色を選んだらかいいのかを迷い始めてうっとうしくなる。それから何日か経ったある日、まったく無意識のうちに黒いポールペンでメモ用紙に線を描いていたと言います。色のない線が思った場所に進んでいく。ここには線が足りていないと思う場所に、まるで「車を運転するように」ポールペンが走っていったのです。

それからMonicaは一心不乱にスパゲティのような絵を描き始めました。眠れない夜中に紙がなくなり、慌てて近所のスーパーにコピー用紙を買いに行くこともあったそうです。彼女は絵が描きたくて描いているのではなく、線を描いていないと他のことを考えてしまってうまく生きていけなかったのです。

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その絵が魅力的だったので、俺は「展覧会とかはしないの」と聞いてみました。彼女はちょっと怒ったような顔をして「誰かの傷口から剥がした絆創膏を見たい人がいるのかしら」と言いました。そうか。これはとても個人的でつらい絵なんだと理解して、それからは絵のことにはふれないようにしました。

俺が東京に戻ったあと彼女からメールが来て、自分の絵をどう思うかと聞かれました。素直に「とてもいいと思う」と答えました。病人に対するお世辞に聞こえないように、「だって俺はアートディレクターなんだから目は確かだよ」と付け加えておきました。

アスティにいるMonicaの母親に絵をまとめたものを送りたいんだけど、それを簡単なブックレットのようなものにできないかと相談されました。それはいいと思って引き受けました。もう10年くらい前のことです。

何年か前に「絵はまだできないのか」とメールを送りました。返事は「他人が決めた締め切りのある仕事をする人はアーティストとは呼ばない。あなたもアーティストならそれくらいわかるでしょ」でした。

というわけでいまだに時々送られてくるMonicaの絵をいつ作品集にまとめられるのか、アーティストでない俺は途方に暮れているのです。 

Collaboration with Monica Moretti.

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Monicaの絵を見ていると、アートという言葉は馬鹿馬鹿しいなと感じることがあります。誰の絵が有名でおしゃれだとか、どこの美術館が新しくてイケてるとか、そういうことのすべてが。

水でも酸素でもないから、人間が生きていく上でアートは必要ない。アートが発生した理由を考えたら、誰の絵がお洒落かなんて話題は何の意味も持たないし、投機として買うならそれは株券と同じ存在です。

俺がギャラリーに行かないのは「不要なモノが必要になろうと闘っている」姿があまりにも少なくて幻滅するから。それが理由です。

絵を描く衝動、写真を撮る意味、ギターを弾く感情を持たない人が、悪く言ってしまうとマガジンハウスの読者的な田舎くささ(本当に申し訳ない比喩で関係者の方々スマン)でアートごっこを志す。アイドルになりたい、野球選手になりたいというのとも似ているけど、まるで「アートの世界に就職する」かのような言葉はダサすぎるので聞きたくないのです。

アートというのは個人からの生きるか死ぬかというレベルの感情の発露でしかなく、流派もジャンルも何もない。それを食べログみたいにカタログ化して意味ありげに言いたがるのはオタク趣味です。そういう観客は元々アートがなくても生きていける人で、他人が硬い肉を「離乳食レベル」にまで噛み砕いてくれた解説を読んでから、美術館に納得するために向かいます。

彼らは展覧会で説明パネルばかり読みます。学芸員の手違いで絵とひとつズレていても、読んで納得するのでしょう。

わざわざアフリカに行かなくてもプリミティブな衝動で描かれた絵は存在すします。そんな短絡的な評価は、「アフリカ人はプリミティブだ」という差別でしかなく、MoMoのようなインテリのイタリア人にも原初的な衝動はあるのです。個人がプリミティブになるというのがアートの本質かもしれません。アートをプラダの新しいデザインのバッグと同じに捉えているような人の話なんて聞きたくない。もちろん貧乏自慢の中央線沿線4畳半アートも苦手ですけどね。

彼女は絵についてのコメントを一切受け入れません(日本語も読めませんけど)。ですからこれは絵にまつわる物語の部分だけMonicaの掲載オッケーをもらいました。

数年前、Monicaは俺に嘘をついていたことを謝ってきました。本当の名前はMonicaではなくSuzan。MoMoというあだ名のためにつけたファーストネームがMonicaだったと言います。対外的に本名のSuzanを名乗る気はないようでした。Suzanが本当かどうかも疑い出せば切りがないですけれど。

「Anizine」
https://note.com/aniwatanabe/m/m27b0f7a7a5cd

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Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。