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ジャイアン・リサイタル:写真の部屋

昨夜は写真家と写真の話をしたのですが、久しぶりに「写真を撮ること」の意味についてプロフェッショナルから聞いた気がします。

音楽を演奏するといった技術が全面に出るものと、写真のようにシャッターを押せば何かしらが写るという行為の差について。ある程度ピアノを弾いてきた人と、今までまったく鍵盤に触ったことがない人を聞き分けることは誰にでもできますし、それは本人にもわかっているでしょう。5秒も聴けば「弾ける人か、弾けない人か」の違いは歴然とするからです。

写真はどうでしょう。世界的に優秀な写真家の一枚と、親戚のおじさんが撮ったものとの区別がつかないことがあります。これが写真の落とし穴であり、作る側と観る側が同時に判断を誤るポイントなのです。しかしこれに対する答えは難問のように見えて至極簡単、「その完成度の写真を毎日量産できるか」と考えれば理解できます。一枚の奇跡の瞬間を手に入れることは誰にでもできますが、毎日奇跡を作り出すことは技術なしでは不可能だからです。

写真が絵や音楽と違うのは、目の前にあるモチーフとどう出会うか、ということが関係してくるからです。フィンランドを旅した日本人がアップした写真を見て「こんなに自然が美しい場所に行けば、誰だってこの程度の写真は撮れるから全然羨ましくはない。私は自分の家の近所でいい写真を撮りたいね」と言っているのを聞いたことがあります。『酸っぱい葡萄方式』の完全な負け惜しみなのですが、ここで大事なのはその人は自分が美しいと思う場所に行く努力もせず、他人の行動を批評しているということです。

写真を撮るためには目の前に何かが存在しないといけません。それが人物でも風景でもいいのですが、単純な言い方をしてしまうと「価値があると感じているもの」でしょう。愛する家族や友人や近所の商店街でもなんでもいい。自分にとって写真に残しておきたいと感じた瞬間が撮るモチベーションになっているはずです。しかし彼が言っているのは、フィンランドの自然は美しいという情報は知っている、自分は行ったことがない、そこに行きさえすれば自分にも同様の写真は撮れるだろう、という『思考のシミュレーション』だけなんですね。

数日前に、こんなツイートをしました。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。