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『ヒロアカ』から多様性社会における「家族」と「教育」について考える

2024年8月5日に発売された『週刊少年ジャンプ』を持ってして、『僕のヒーローアカデミア』の原作漫画が完結しました。

また、ほぼ同時期の同年8月2日には第4作目となる劇場版も公開され、現在放送中のTVアニメ7期もあり、アニメオタクたちは絶賛『ヒロアカ』モードです。

かく言う私も例外ではなく、頭の中が『ヒロアカ』でいっぱいになっています。

『ヒロアカ』は「個性」と「ヒーロー」という2つの設定を用いた能力系バトル作品です。

現在、私たちが生きる社会では「オンリーワン」とか「希少性」が求められてはいます。しかし実際問題として、現代は実力主義の競争社会である側面もあり、ナンバーワンとは言わずとも、可能な限り「上位」に入ることが求められます。

『ヒロアカ』も同じで、基本的には「個性」がある程度は尊重されるものの、ヒーローを目指すには競争社会に飛び込まなくてはいけません。

これ、若者が抱いている葛藤を上手く作品に落とし込んでいると感じます。

その上で『ヒロアカ』はキャラが魅力的なことから、様々な視点で物語を描いています。その中のテーマの1つが「家族」です。

ヒーローとヴィランを分けるのは、家族を含めた「境遇」や「環境」が大きな要因の1つとして描かれているように思えます。

デクと死柄木の違いは、オールマイトに出会ったかAFOに出会ったかどうかだけなのかもしれません。

そう考えると、個性を活かせるかどうかは、大人が子どもたちにどのような影響を与えるのかに尽きる気がします。そしてその役割を担っているのは「家族」と「教育」です。

AIが急激なスピードで進化する我々の社会では、『ヒロアカ』と同じように「個性を伸ばすこと」が求められます。そのために、大人が子どもたちにできることは一体何なのでしょうか?

ケース①:緑谷出久

緑谷出久は無個性の典型的な落ちこぼれで、しかしヒーローへの憧れが強く、ある意味で「可哀想な子ども」だったと思います。

私は基本的に、教育において重要なのは「可能性を広げること」だと考えます。「可能性を狭めること」は子ども自身の判断に委ねるべきで、親が介入すべきではありません。

その点で言えば、出久の母親は悪手を取ってしまったと言わざるを得ません。もちろん悪気はなく、あくまでも母親として心配したからなのですが……。

ごめんね

『僕のヒーローアカデミア』より引用

しかし、それでも出久はめげずにヒーローのことを研究し続けていました。

何よりも「自分のことを勘定に入れない」という究極の利他的思考を持っていることから、無力なのに友だち(かっちゃん)を助けようとします。

そして出久は、オールマイトに言って欲しかったことを言ってもらえたことで、ヒーローになるまでの物語を突っ走るようになります。

君はヒーローになれる

『僕のヒーローアカデミア』より引用

ケース②:轟焦凍

轟焦凍は典型的なエリートどころか、個性婚で誕生した存在です。そのため、親(エンデヴァー)からの期待が強かったのですが、これが大きく空回りしてしまい、結果的に轟家は壊滅状態になります。

実際、エンデヴァーのように、英才教育を子どもに押し付ける親御さんは、一定数いるのではないでしょうか?

このような圧迫的な英才教育は、たしかにエリート人材の育成に繋がるかもしれませんが、やり過ぎは問題です。

そのうえ、エンデヴァーは自分の夢を子どもに押し付けすぎてしまいました。

また、轟燈矢(荼毘)に関しては、常々「ヒーローになりたい!」と言っていないにも関わらず、ロクに対話することなく一方的に「お前はヒーローになるな!」の一点張りです。

先ほども述べた通り、教育において重要なのは「可能性を広げること」であり「可能性を狭めること」ではありません。

エンデヴァーは、自身の子どもたちに対して、可能性を狭める方針を取ってしまったため、家族問題が一向に解決しなかったのです。

焦凍が恵まれていたのは、やはり1年A組のクラスメイトでしょう。仲間の刺激を受けた結果、家族との接し方を見直すようになり、少しずつ前を進むようになったのです。

また、エンデヴァーのように「仕事熱心なパパ」は多いと思うのですが、やはり優先順位は「家族>仕事」だと思いますね。

ケース③:死柄木弔

死柄木弔は絶対的な悪のように見えますが、物語をよく見ていると、たしかに死柄木弔は「社会の被害者」のように思えます。

志村転狐(死柄木弔)も出久と同じように「ヒーローになりたい!」と常々思っていましたが、父親に「ヒーローになるな!」と厳しく叱責されます。そのうえ、家族は誰も助けてくれません。

ここまで見ると出久と同じなのですが、決定的に違うのはオールマイトのような味方の存在です。

出久は「ヒーローになれる!」とオールマイトに言ってもらえましたが、転狐はオールマイトのような存在に出会うことができず、挙げ句の果てにAFOと出会ってしまいました。

たしかにAFOは救いようがないのですが、もし志村家が子どもの夢に対して寛容であれば、転狐は文句なしにヒーローを目指すことができ、強力な個性を使って立派なヒーローになれたかもしれません。

繰り返し言いますが、子どもの可能性を狭めるべきではないのです。

ケース④:トガヒミコ

おそらく『ヒロアカ』でもっとも狂っているのはトガヒミコでしょう。なぜならトガヒミコは、生まれつきで「血」に興味を持ってしまっていたからです。

死柄木弔の場合、外的環境が大きな要因となりましたが、トガヒミコは違います。おそらく、環境が変わろうとも「血」に強い興味を持っていたはずです。

ただし、そんなトガヒミコに対して盛大にバッシングした家族や学校が問題なのは言うまでもありません。

すごく寛容な言い方をすれば、トガヒミコが抱く好奇心は、あくまでも「個性」なのです。

「血」に対する強い興味は、医療などの様々な領域で応用できるはずで、家族や学校は、そのような道を示すべきでした。でも、そんなことよりもトガヒミコに恐怖してしまい、自衛(中傷)に走ってしまった。それが問題でしょうね。

もちろん、トガヒミコの根本思想である「相手を傷つけること」は倫理的にアウトなので、治さなければなりません。

つまり、トガヒミコに対するベストな教育とは「倫理的な形で個性を伸ばす」です。

プログラミング技術も、上手く活用すれば社会をより良くできますが、倫理観を失うとハッカーに成り下がります。

だから、可能性を広げながらも、倫理的に側面で可能性を制限する必要があるので、これは難しいですね。少なくとも、近代から続く集団教育では難しいでしょう。

私が思うに、トガヒミコのような子どもを救えるかどうかが、その社会の教育レベルを見極める指標になると思います。

ケース⑤:爆豪勝己

『ヒロアカ』においてもっとも問題児であり、でも実は家族の問題が一切ない爆豪勝己はどうでしょうか?

もう一度言いますが、爆豪勝己は問題児です。なぜヴィランではなくヒーローを目指しているのかが不思議なくらいのキャラクターです。

爆豪勝己が倫理をギリギリ見失っていないのは、まずオールマイトの存在が大きいでしょう。

幼少の頃からオールマイトを見て育った爆豪勝己は、彼に対して強い憧れを抱いています。たしかに限りなく暴力的ですが、一線を越えることは絶対ありません。それほどの絶対的な軸が、爆豪勝己にはあります。

そして何よりも、爆豪家は母親が素晴らしいのだと思います。

数少ない爆豪家のシーンを見ると、お母様も相当に暴力的で、勝己が何か悪いことをしたらすぐ殴ります。しかし、そこにネガティブな感情は一切ありません。殴って、勝己も反抗して、それで終わりです。

言ってしまえば、爆豪家はとても良い意味で「適当」なのだと思います。

高畑勲監督が手がけた『ホーホケキョ となりの山田くん』では、山田家の日常がおもしろおかしく描かれ、終盤で円満家族の秘訣は「適当であること」にあると説かれました。

「適当」とは文字通り「テキトー」であり、別に真面目になる必要などないのです。言われてみれば、緑谷家も轟家も真面目すぎたのかもしれませんね。爆豪家ぐらい適当でいいのかもしれません。

まとめ

ここで本記事をざっくりまとめようと思います。

  • 緑谷出久は、母親の代わりにオールマイトが夢を強く応援してくれた

  • 轟焦凍は、エンデヴァーの夢を肩代わりさせられ、その結果として轟家が崩壊した

  • 死柄木弔は誰にも「君はヒーローになれる」と言ってもらえずに、AOFと出会ってしまう

  • トガヒミコのような子どもでも個性を認めてあげて、倫理的に道を修正してあげる必要がある

  • 実は爆豪家が理想の家族だった

これから本当に『ヒロアカ』のような世界が訪れるのではないかと思います。いや、YouTubeが台頭し始めた2010年代で既に「個性」が求められる時代は訪れているのかもしれません。

しかしだからと言って、社会全体が個性を認めるわけではなく、一部または大多数の人が個性を否定することがあります。

近代社会であれば、全員にそれなりの質の教育を提供できれば良かったのかもしれません。しかしこれからの社会では、各人にあわせた教育を提供し、子どもたちの個性を広げてあげる必要があります。

それと同時に、社会のルールや倫理観なども教え、道を外れないようにもする。

その鍵を握っているのは「家族」と「教育者」なのです。

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