因果の法則
こんにちは。もしくはこんばんは。アユムです。
前回の記事までは、僕の17歳頃までの経験を綴ってきましたが、今回は少し趣きを変えて”今”の僕の感じ方や考え方を綴っていこうと思います。
本題に入る前に、少しだけ補足をさせて下さい。
前回、父が【思い・言葉・行動の一致した姿】を見せてくれた。というような内容を書いたと思いますが、何故、それが僕にとって大きな影響を与えたのかというお話をしたいと思います。
僕は、父と2人で旅に出る前は父のことがめちゃくちゃ嫌いでした。主に小学校5年生以降です。
それ以前にも、自分なりに考えて分からないことを質問した時など、「自分で考えろ」「見てたら分かる」など突き放されたように感じることが多く、気づけば「質問をしない(できない)」という癖がついてしまっていたのです。
このような時は、子供ながらに「そんな言い方しなくても良いのに」とか、「考えた上で訊いているんだよ!」と反論したりもしたのですが、理解してもらうことは難しいと感じたものでした。
父への不信感が爆発したのは、我が家に一本の電話が切っ掛けでした。
その頃は、家計もかなり苦しかったのだろうとは思うのですが、父は居留守を使うことが多く、父宛ての電話や来客に対応しないことが続いていたのです。
ある日の晩のこと。父親宛てに電話が掛かってきました。
母親が電話口に立っていたのですが、父親を呼びに行くと、父は相変わらずの居留守です。電話を代わらずに母親がそのまま電話の相手の応対をしていたのですが、その母親が突然、涙を流し始めたのです。
困惑と不安、悲しみ、苦しみ、怒りに似た感情も交じっていたのかも知れません。
泣き始めた母をみながら、どうすることも出来ない自分の無力さとやるせない気持ちを感じると同時に、父親に対する嫌悪感が爆発し、日頃偉そうなことを言っていてもこの人(父親)は「家族の窮地に当てにならない人間」なのだ、という感覚が根付いてしまいました。
そのような過去の出来事があり、二人旅に出る時まで、僕は父親に対して強い不信感を持っていたのでした。
【思い・言葉・行動の一致】
さて、ここからが本題です。
なぜ、僕は強く持っていた父親への不信感をぬぐい去ることができたのでしょうか?
僕自身の答えとしては、何度も述べているように、【思い・言葉・行動の一致した姿】を見せてくれたからです。
と言っても、突然に父親のことを受け容れられた訳ではありません。
僅か2ヶ月とはいえ、他の家族と離れ、父と2人だけで過ごすことで、少しずつ父のことを受け入れられるようになりました。
その旅の中で出会った多くの方々の影響も抜きでは語れません。
旅の中で出会う人達がみな、口を揃えて、「素晴らしい経験をしているね。」だったり、父のヴィジョンとそれに対するアクションを「素晴らしい」と手放しで称賛してくれたことも大いに関係しています。
ある意味では、【ただ、そこに存在していること】を他者に認めて貰うことで、僕自身が癒され、僕自身を受け容れられるようになっただけなのかもしれません。
後に学ぶことになるスピリチュアリズム(霊的真理)によると、「良い原因には良い結果が、悪い原因には悪い結果がもたらされる」(因果の法則)ということ、そして、スピリチュアリズムを知る知らないに関わらず、そして、意識するしないに関わらずよく使われる「類は友を呼ぶ」という言葉で表される波長の法則というふたつの法則により、僕と父の存在と行動を、手放しで受け入れ、喜んでくれる方々とご縁を頂けたのだと思います。
因果の法則については、仏教でも触れられており、仏教では「善因善果 悪因悪果」という言葉と、「因果応報」という言葉などをもって語られています。
キリスト教では、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」とナザレのイエスが言ったと伝えられています。
時代、国の違いはあっても、両者とも、この【因果の法則】について解き明かしていたのではないだろうか。