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アニメーション映画「きみの色」解題・傾聴、観察、分析④「キリスト教教会」と「保健室」など

「あるく」の分析、訂正と補足

ライブ曲「あるく」の分析が、特にキリスト教要素について比較的弱かったので、補足します。
歌詞の部分は音楽担当の牛尾憲輔氏によれば、「プライベートなもの」で、きみちゃんの個人的な祈りが中心と思われ、歌詞には強くキリスト教(カトリック)の影響が見られませんでした。
ではどこにキリスト教的要素が埋め込まれたのでしょうか。
映画でもここに関するセリフはありますが、小説にはさらに詳しくこう綴られています。

(ルイは)きみの曲にアレンジを加えたいと考えているうちに、絶妙のアイデアを得たのだ。
・・・
演奏してみると、やはり良かった。それはきみがしろねこ堂で何度も練習していたアヴェ・マリアのフレーズだった。これをきみの曲に忍び込ませる。

小説 きみの色 より 抜粋

ここでいう「アヴェ・マリア」はグレゴリオ聖歌のものです。この曲の楽譜を見ながら演奏を聴くと、確かにこの「アヴェ・マリア」のメロディーがアレンジされて組み込まれ、間奏においてテルミンで演奏されていることが(何となく)わかります。これがこの曲の「キリスト教要素」と言えそうです。

地動説・宇宙観

2024年秋季で放送されている、マンガ原作のアニメーション「チ。」では、地動説は異端です。しかし今となっては地動説(で宇宙を説明すること)は、カトリックにおいても当然のことで、ミッション系の学校でも教えられています。そして「水金地火木土天アーメン」は、地球という惑星は太陽の周りを回っており、太陽も宇宙の中で高速で動いていると歌っています。

しかし実は、コペルニクスの地動説を支持したガリレオ・ガリレイが、バチカン宗教裁判所から「異端」の判決を受けた1633年の宗教裁判について、ヨハネ・パウロ2世が裁判所の誤りを認めガリレオに謝罪したのは1992年なのでした。

現在での宇宙論においては、何かの定数がほんのわずかに違っていたら、宇宙は存在しなかったことがわかっています。信仰ではなく科学によって解き明かされることで、むしろこの世界の神懸かったデザインが明らかになっている、と感じます。

学校の「保健室」、社会の「教会」

この作品では、トツ子・きみ・ルイの3人が「安全・安心な場所」あるいは「護られている場所」であり、「護られながら様々な活動をする場所」がいくつも存在してます。トツ子には「学校の聖堂」、きみには「バイト先の古本屋・しろねこ堂」、ルイには「古い教会堂」があります。ルイの「護られている場所」は物語の中盤からは「3人が秘密と好きを共有する場所」となりました。

この3つの場所は私たちには馴染みがなかったり、特に何も思い当たらない場所だったりするかも知れません。しかし、彼ら3人にとっては極めて重要な場所となりました。

彼らには「護られている」場所がある、そこでバンドの練習ができるということが重要でした。では翻って、私たちにはそのような「護られている、秘密の場所」となる「安全・安心を得られる場所」はあるでしょうか。

ヒトにとって自分が行動するためには、「基地」となる「護られた」「安全・安心な場所」が必要です。それが得られない限り、ヒトはどこであっても、どこに居ても不安や緊張を強いられます。それがあらわになるのが「不登校」や「ひきこもり」といった現象です。

「青春ブタ野郎シリーズ」では、序盤、わけあって強いストレスを受けた後に身体症状が現れ(これが「身体のあちこちに原因不明の切創のような傷ができる」という、現実的な身体症状ではないために、「すこし不思議」な物語になるのですが)人格が変化する、ということが起きている女の子がいます。これに現実での病名を付けるなら「解離性同一性障害」となるかと思います。
その中で患者は自宅から一歩も外に出られなくなってしまっていました。彼女は兄による献身的な対応が実を結び、元の人格へと戻り、外出できるようになり……というエピソードに仕上がっていました。(「おるすばん妹」「おでかけシスター」)

現実においてもそのような場所が得られないために強いストレスを感じてしまうヒトは案外多いと考えられます。
そのようなときに、学校においては「保健室」が特殊な役割を持つことがあります。「保健室登校」と呼ばれる事象もある通り、「学校に在りながら学校に属していない場所」としての「保健室」があるようです。

では、学校をすでに卒業してしまっている場合には、どこがそのような場所になり得るのでしょうか。特に、家こそが強いストレッサーになっている場合には、どこに行けばいいのかもわからないということも起こります。そのようなときに人が向かうのが「どこでもない場所」ということになります。例えば「トー横」はそのような場所「だった」のでしょう(既に過去のものですが)。

このようなときに別の候補となり得るのが、「シェルター」と呼ばれる場所であったり、「駆け込み寺」と呼ばれる寺院や、常に誰かがいる「教会」があると、私は見ています。そこは、「社会」にあって「社会」とは隔絶された場所だといえるのではないかと思います。

小説「きみの色」でも登場した、聖書の「詩編121 5-8」にあるような、そんな場所が個々人にあればよいということです。

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