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シン人類の哲学『「チ。-地球の運動について-」を観て想う』
――人はなぜ“正しい”と信じて人を裁くのか
「人間を救うための仕事が、人間を裁くのは悪魔か鬼――」
この問いを抱きながら、アニメ『チ。-地球の運動について-』を観た。そこに描かれるのは、宗教、国家、学問という権威の名の下、人間が人間を裁く愚かさである。
物語の中心は、「地球は動いている」という異端の思想を証明しようとする学者たちと、彼らを異端者として弾圧する権威の衝突だ。しかし、物語の本質は、科学や思想の進化の物語ではない。
むしろ、「人間はなぜ“正しい”と思い込んだ瞬間に、他者を裁き、罰するのか?」という問いかけである。
正義の名の下で裁く愚かさ
神様も仏様も、国家も、すべては人間を救うために存在している――そのはずだ。
しかし、救いのための仕組みが、いつしか人間を裁き、罰する道具へと変わる。
これは歴史が何度も繰り返してきた悲劇だ。
たとえば、宗教裁判、政治粛清、学問の抑圧、戦争の正当化。
人間は“正義”の名の下で、異端とされた人々を迫害し、時に殺すことすら厭わない。
それはなぜか?
「自分が正しい」と信じた瞬間に、人は悪魔になるからだ。
学者や医師、識者の“賢い馬鹿”
『チ。』の物語は、異端を排除しようとする学問界の姿を描く。
これを現代に置き換えるなら、学者、医師、識者と呼ばれる“賢い馬鹿”たちが、同じ過ちを繰り返していると感じる。
たとえば、かつての医師たちは、手を洗わずに患者に触れていた。
手を洗うことが感染症を防ぐと主張した医師ゼンメルワイスは、異端者として精神病院に送られた。その後、彼の説が正しかったと認められたが、時すでに遅し――ゼンメルワイスは心を病み、亡くなった。
この話は何を意味するか。
「常識」は、時に人を殺す。
そして、それを正しいと信じ込むのが、学者や識者という“賢い馬鹿”たちなのだ。
認知バイアスが作る“賢い馬鹿”
心理学で「認知バイアス」という概念がある。
簡単に言えば、人は自分の知っている情報に偏り、見たいものしか見えなくなるということだ。
『チ。』に登場する異端者たちも、現代の科学者も、この認知バイアスの罠に陥ることがある。
たとえば、現代では「エビデンス」という言葉が重視されるが、エビデンス自体が偏っていることもある。
その結果、「科学的根拠」を盾に、他者の考えを否定する――これもまた認知バイアスの一つだ。
“無知の知”と謙虚さの重要性
『チ。』の物語が示唆するもう一つのテーマは、「無知の知」の重要性である。
ソクラテスは、「私は自分が何も知らないことを知っている」と語った。
この哲学は、現代にも通じる――人間は、自分の知らないことが無限にあると認める謙虚さを持たなければならない。
謙虚さがなければ、「自分が正しい」と思った瞬間に他者を裁く悪魔に変わる。
裁きではなく、救いを――“シン人類”の哲学
もし、神様や仏様、国家が本来の目的を思い出すならば、「裁き」ではなく「救い」を与える存在になれるはずだ。
しかし、そのためには、「自分が正しい」と思い込む認知バイアスを解き、謙虚な心を持たねばならない。
私たちが目指すべきは、「頭が良すぎて愚かになる賢い馬鹿」ではなく、人を裁かず、救いを与える“シン人類”である。
そのためには、次の問いを胸に刻む必要がある。
「自分が正しいと思った瞬間、自分は悪魔になっていないか?」
この問いが、私たちを謙虚にさせ、救いの道へと導く。
未来への提案――裁くのをやめ、救う存在になる
歴史を振り返れば、異端とされた思想が、のちに真実と証明されることが多い。
それは、私たちが「常識」というバイアスに囚われているからだ。
だからこそ、私たちは「常識」にとらわれず、多様な考えを受け入れ、他者を裁くことをやめるべきだ。
裁くのではなく、救いを与える――これが、新しい時代に求められる人間の在り方だ。
それが、“シン人類”の哲学である。
著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜